第一艦隊へ
昭和三十八年九月八日。佐世保。
午前八時過ぎ、航空母艦鳳翔はゆっくりと港内へ入ってきた。
岸壁から見れば、すでに立派な軍艦だった。長い飛行甲板、右舷に寄せられた艦橋、斜めに走る着艦区域。船体には就役したばかりの新しさが残っている。
だが、乗っている者たちの感覚は少し違った。
横須賀を出てからの航海で、いくつもの問題が見つかっている。航空機の移動にまだ時間がかかる。艦橋とCICの情報伝達には改善の余地がある。機関そのものは好調だったが、乗員がその癖を完全に把握したとは言い難い。
新鋭艦ではある。
しかし、熟練艦ではない。
鳳翔はその状態で佐世保へやって来た。
岸壁では補給部隊が待っていた。燃料、食料、航空関係物資、交換部品。入港が終わると休む間もなく搬入が始まり、艦内では各部署の点検が進められる。
予定されている停泊期間は、わずか二日だった。
「二日か」
鳳翔艦長は予定表を見ながら呟いた。
副長が答える。
「以前なら一週間は欲しいところです」
「以前ならな」
二人とも、その意味は分かっていた。
朝鮮半島では戦争が続いている。
第一艦隊はすでに二週間以上、朝鮮半島南東方で行動していた。
そして隼鷹は、休んでいない。
*
同日午後、佐世保鎮守府。
鳳翔の士官たちは会議室へ集められていた。
壁には日本海と朝鮮半島の海図が掛けられている。その前に立った聯合艦隊司令部の士官は、簡単な説明から始めた。
「現在、第一艦隊は韓国南部へ向かう海上交通路の保護任務を継続している」
海図上の航路を指す。
「これまで大規模な海上戦闘は発生していない。ただし、小型船舶による接近、沿岸部への浸透と見られる行動、不審な無線活動は継続している」
誰も口を挟まない。
「第一艦隊の問題は、敵ではない」
指が隼鷹の位置へ移った。
「時間だ」
隼鷹は古い。
艦そのものだけではない。航空機も乗員も、連日の哨戒で消耗する。整備に必要な時間も増え始めている。
戦争は、敵と戦うだけで軍隊を疲れさせるわけではない。
何も起こらない海を毎日監視する。
それだけでも、人間と機械は確実に消耗する。
「そこで鳳翔には、第一艦隊との合同運用試験を行ってもらう」
艦長が尋ねた。
「場所は?」
士官は少し間を置いた。
「対馬海峡北方」
会議室の空気が変わった。
朝鮮半島南東方ではない。
だが、もう訓練海域と呼べる場所でもない。
「確認します」
艦長が言った。
「我々は実戦任務へ入るのですか」
「現時点では違う」
答えは明確だった。
「鳳翔は依然として慣熟段階にある。第一艦隊の作戦任務には参加しない。合同通信、航空管制、艦隊行動の確認を行う」
「その後は?」
士官は答えなかった。
答える必要もなかった。
その後を決めるための訓練なのだから。
*
九月九日。
鳳翔の飛行甲板では、航空隊の確認作業が続いていた。
主力となる艦上対潜機「青鷹」。海軍が導入したS2F系列の機体である。その横では対潜ヘリコプターの整備も進められている。
隼鷹で十年間かけて学んだことが、鳳翔では最初から設計へ組み込まれていた。
航空機を飛ばす。
探す。
情報をCICへ送る。
護衛艦と共有する。
必要なら別の航空機を向かわせる。
単に三十五機の航空機を積めるだけではない。
三十五機を、艦隊の一部として使う。
それが鳳翔の目的だった。
若い航空士官が飛行甲板を歩いていると、一人の整備員が海を見ていた。
「どうした」
「いえ」
整備員は少し迷ってから答えた。
「朝鮮って、ここから近いんだなと思って」
佐世保から見えるわけではない。
だが、海図を見れば分かる。
対馬の向こう。
そのさらに先。
戦争をしている国がある。
航空士官はしばらく海を見た。
「近いから行くんじゃない」
整備員が振り返る。
「命令が出たら行く。それだけだ」
「はい」
二人は作業へ戻った。
*
同じ日。朝鮮半島南東方。
隼鷹のCICでは、翌日の船団護衛計画が組まれていた。
黒木中佐の前に、新しい電文が置かれる。
『鳳翔、佐世保入港』
続いて、
『九月十日出港予定』
黒木は二枚目を読んだ。
そこには第一艦隊との合同運用試験と書かれている。
「来るのか」
隣にいた士官が言った。
「まだ我々のところまでは来ません。対馬海峡北方です」
「十分近い」
黒木は電文を相沢へ渡した。
相沢は読み終えると、少し笑った。
「思ったより早かったですね」
「東京が急いでる」
「大丈夫でしょうか」
黒木が相沢を見る。
「それを確かめるために来るんだろう」
もっともだった。
相沢は海図を見る。
隼鷹。
鳳翔。
まだ、かなり離れている。
それでも同じ海図の上に二隻の航空母艦が載るようになった。
「一度見てみたいですね」
「何を」
「鳳翔ですよ」
相沢は言った。
「俺たちが十年かけて覚えたことを、どんな船にしたのか」
黒木は鼻で笑った。
「気に入らなかったら?」
「高瀬少佐に文句を言います」
「もう乗ってないぞ」
「じゃあ手紙を書きます」
久しぶりに、CICで小さな笑いが起きた。
ほんの数秒だった。
すぐに次の報告が入る。
船団出港予定。
護衛艦配置。
航空哨戒予定。
仕事は続く。
*
九月十日、午前六時三十分。
佐世保。
鳳翔が出港した。
岸壁から見送る人間は少なかった。
式典もない。
音楽もない。
必要な物資を積み、必要な人員を乗せ、静かに港を離れていく。
目的地は対馬海峡北方。
艦長は艦橋から海を見ていた。
「速力は」
「予定通りです」
「航空隊」
「第一哨戒班、待機完了」
「CIC」
「第一艦隊との通信接続準備中」
艦長は頷いた。
すべて順調。
だからこそ、不安だった。
訓練なら失敗できる。
今日も形式上は訓練である。
しかし、この先の海には本物の戦争がある。
その境界が、あまりにも近い。
午前九時を過ぎると、鳳翔のCICに第一艦隊からの情報が入り始めた。
船団位置。
哨戒区域。
不審船情報。
気象。
航空情報。
これまで訓練で使ってきたものと形式は同じだった。
違うのは、その数字の向こうに実際の船がいることだった。
「情報量が多いな」
CICの士官が言った。
「処理できるか」
「やります」
鳳翔は進む。
九州の西を北上し、対馬へ近づいていった。
*
正午。
海軍省。
海軍大臣の机に一枚の文書が置かれた。
鳳翔の第一艦隊編入について。
まだ決裁されていない。
海軍側の意見は記されていた。
機関――問題なし。
航空運用――実用可能。
通信――良好。
CIC――改善を要するが実用可能。
乗員練度――継続的な慣熟を要する。
そして最後。
『限定的作戦任務への投入は可能と判断す』
海軍大臣は、その一文を長く見ていた。
可能。
それは、送るべきだという意味ではない。
軍人が「できる」と判断することと、政府が「やれ」と命じることは別だった。
「首相官邸へ回してくれ」
「はい」
鳳翔を戦争の海へ入れるかどうか。
その決定は、海軍省の机では終わらなかった。
*
午後三時四十分。
対馬海峡。
鳳翔の飛行甲板から、青鷹が一機飛び立った。
最初の任務は合同訓練だった。
第一艦隊から送られてくる情報を使い、指定された海域を確認する。結果を鳳翔へ送り、鳳翔のCICが整理して第一艦隊へ返す。
単純な作業だった。
だが、一つ違うことがあった。
海図上に引かれた訓練区域のすぐ北には、実際の作戦区域がある。
航空機は境界を越えない。
鳳翔も越えない。
その日のうちは。
*
夕方。
隼鷹。
通信士官が黒木へ報告した。
「鳳翔航空隊から第一報です」
黒木が受け取る。
海面状況。
確認船舶。
異常なし。
形式は、隼鷹の航空隊が使っているものとほとんど同じだった。
相沢も横から見る。
「ちゃんと見えてるじゃないですか」
「当たり前だ」
「まだ何も言ってませんよ」
「顔に書いてある」
相沢は笑った。
そして、電文の発信元を見る。
航空母艦鳳翔。
初めてだった。
隼鷹のCICに、鳳翔から実際の海上情報が届いた。
まだ姿は見えない。
水平線の向こうにすらいない。
それでも二隻は、同じ海を見始めていた。
*
九月十一日、午前零時十二分。
東京。
首相官邸では短い会議が続いていた。
第一艦隊の疲労。
増加する輸送船。
朝鮮東岸の海上活動。
鳳翔の慣熟状況。
そして、海軍省の意見。
首相は資料を最後まで読んだ。
「攻撃任務には使わない」
「はい」
「朝鮮沿岸へ単独で近づけない」
「はい」
「第一艦隊の指揮下で、海上交通保護と対潜哨戒に限定する」
海軍大臣が頷く。
首相はペンを取った。
短い署名だった。
それだけで、一隻の軍艦の運命が変わった。
*
午前一時三十分。
対馬海峡北方。
鳳翔の通信室に、聯合艦隊司令部からの電文が届いた。
当直士官は内容を確認すると、すぐに艦長を呼んだ。
艦長は寝室から上がってきたばかりだった。
「何だ」
「東京からです」
紙を受け取る。
読む。
もう一度読む。
そして、艦橋へ向かった。
夜の海が広がっている。
前方は暗い。
その先に第一艦隊がいる。
艦長は当直士官へ言った。
「全艦へ知らせろ」
「はい」
艦内放送が入る。
眠っていた者たちも、その声で目を覚ました。
『本艦ハ本日付ヲ以テ第一艦隊ニ編入サル』
一瞬、艦内が静かになった。
続いて任務が読み上げられる。
海上交通保護。
対潜哨戒。
航空警戒。
第一艦隊との共同作戦。
そして最後。
『第一艦隊主力ト合同スベシ』
艦長は海図を開いた。
鳳翔の現在位置。
そして北東。
航空母艦隼鷹。
距離が測られる。
「針路」
航海士が尋ねた。
艦長は海図から顔を上げた。
「第一艦隊へ」
鳳翔がゆっくりと向きを変える。
昭和三十八年九月十一日。
戦後初の国産航空母艦は、訓練海域を離れた。
その先には戦争がある。
そして、その戦争の海で待っているのは、十年前から日本海軍の航空隊を育て続けてきた老いた空母だった。
隼鷹と鳳翔。
二隻の距離は、夜の海の中で縮まり始めた。




