新しき駆逐艦
昭和三十一年三月。
長崎沖。
駆逐艦「春風」は、初めて外洋へ出ていた。
艦橋では計器を見つめる士官たちが並び、機関室では乗員と造船所の技師が機械の状態を確認している。
海軍旗が、艦尾で強い風を受けていた。
「速力、三十ノット」
報告が上がる。
春風は波を切った。
船体が細かく震える。
高瀬誠一技術大尉は艦橋後方から、その様子を黙って見ていた。
白紙から始まった艦だった。
線を引き、
消し、
また引いた。
そうして生まれたものが、今は自分の足で海を走っている。
「三十一」
さらに速度が上がる。
艦首から白い飛沫が上がった。
「三十二ノット」
計画速力。
高瀬は時計を見る。
数字そのものに驚きはなかった。
計算上は出ることになっている。
だが、計算と現実は違う。
しばらくして報告が来た。
「機関、異常なし」
高瀬は小さく息を吐いた。
隣にいた造船所の技師が笑う。
「浮きましたね」
「進水式で確認しました」
「走りましたね」
「今確認しました」
「嬉しくないんですか」
高瀬は少し考えた。
「まだです」
公試は始まったばかりだった。
*
春風は、その後も試験を続けた。
旋回。
航続運転。
通信。
レーダー。
ソナー。
当然、すべてが予定通りとはいかなかった。
振動が予想より大きい場所があった。
艦内の機器配置にも改善点が見つかった。
CICでは、実際に人間が配置されると通路が狭かった。
通信機器にも細かな不具合が出た。
そのたびに春風は長崎へ戻った。
直して、
また海へ出る。
そしてまた問題を見つける。
高瀬にとって、それは失敗ではなかった。
むしろ、そのための公試だった。
図面では見つからない問題を、
海に教えてもらう。
昭和三十一年五月。
春風は最終公試を終えた。
*
六月一日。
駆逐艦「春風」竣工。
艦尾に軍艦旗が掲げられた。
戦後初の国産駆逐艦が、
正式に日本帝国海軍へ加わった。
基準排水量、約二千トン。
速力、三十二ノット。
新型のレーダーとソナー。
対潜戦闘を重視した兵装。
そして、従来艦より充実した戦闘情報区画。
だが、春風の価値は数字だけではなかった。
この艦は最初から、
戦後の海軍が必要とした任務のために設計されていた。
艦隊を護衛する。
潜水艦を探す。
航空隊と情報を共有する。
船団を守る。
戦艦へ魚雷を撃ち込むことを第一に考えた駆逐艦ではない。
昭和三十一年の海を守るための駆逐艦だった。
*
七月。
横須賀。
第一艦隊の岸壁に、新旧二隻の駆逐艦が並んだ。
雪風。
そして、
春風。
二隻の間には十年以上の時間があった。
雪風の船体には、長い年月を海で過ごした痕跡が残っている。
その隣で春風の船体は新しかった。
高瀬は岸壁から二隻を眺めていた。
「妙な気分だな」
雪風は、戦争を生き残った。
復員輸送を行い、
再編された海軍へ戻り、
今も第一線にいる。
その雪風の隣に、
自分たちが造った駆逐艦がいる。
古い海軍から残された艦と、
新しい海軍が造った艦。
二隻は同じ軍艦旗を掲げていた。
第一艦隊への編入から間もなく、
春風は雪風とともに訓練へ出た。
先を走る雪風。
その後方を春風が追う。
速力では大きな差はない。
だが艦内はまるで違った。
春風のCICには、レーダーとソナーから情報が集まる。
他艦からの報告も整理される。
航空隊から送られる情報も、
同じ海図上へ載せられていく。
まだ完璧ではない。
通信が遅れることもある。
位置がずれることもある。
それでも、以前より確実に速かった。
「雪風より先に探知しました」
CICで報告を受けた春風艦長は、少しだけ笑った。
「そうか」
それ以上は言わなかった。
競争ではない。
雪風を負かすために春風が造られたわけではなかった。
いつか、
雪風が海を離れられるようにするために造られたのだ。
*
昭和三十一年秋。
春風の就役を受け、
海軍省では新しい艦隊整備計画がまとめられていた。
春風型駆逐艦の追加建造。
新型海防艦。
航空隊の拡充。
旧式艦艇の段階的退役。
その資料の最後に、
これまでとは桁の違う計画が置かれていた。
高瀬は会議室で、その紙を見た。
『次期艦隊航空戦力整備に関する基礎研究』
ページをめくる。
そこに記されていた艦種を見て、
高瀬の手が止まった。
航空母艦。
「……本気ですか」
向かいの士官が答えた。
「まだ研究だ」
「隼鷹がいるでしょう」
「だからだよ」
資料が一枚めくられる。
隼鷹。
昭和八年起工。
商船として生まれ、
戦争中に空母となり、
敗戦を生き残り、
再び海軍へ戻った。
だが、艦齢はすでに二十年を超えている。
「あと十年使うつもりか?」
誰も答えなかった。
使えるかもしれない。
だが、
使えることと、
使い続けるべきことは違う。
高瀬は資料へ目を戻した。
まだ艦名はない。
排水量も決まっていない。
建造時期すら決まっていない。
ただ一行だけ。
『国産航空母艦建造ノ可能性ヲ検討ス』
春風が白紙から始まったように。
帝国海軍は今度、
もっと大きな白紙を前にしていた。




