春風、起工
昭和二十九年四月十日。
長崎。
朝から造船所には、多くの海軍関係者が集まっていた。
軍楽隊も、大勢の観衆もいない。
戦前の巨大戦艦の起工式とは比べるべくもない、小さな式典だった。
それでも。
海軍にとって、この日は特別だった。
造船台の前に、高瀬誠一技術大尉は立っていた。
目の前にあるのは、まだ軍艦ではない。
鋼材。
資材。
巨大なクレーン。
そして、これから一隻の艦が形作られる場所。
「ここから始まるのか」
高瀬が呟いた。
昭和二十年。
日本は戦争に敗れた。
海軍の多くの艦艇は沈み、生き残った艦も武装を降ろした。
造船所から軍艦の姿は消えた。
残された艦艇は、人を故郷へ運び、機雷を除き、日本近海を守った。
やがて海軍は再編された。
隼鷹が再び海へ出た。
雪風も、響も戻った。
だが、それらはすべて戦争以前に造られた艦だった。
今日。
それが変わる。
式典が始まった。
海軍省の代表者。
艦政本部の技術者。
造船所の職員。
そして、新型駆逐艦計画に関わった者たち。
高瀬もその中にいた。
海軍大臣の代理として出席した政務官が前へ出た。
軍人ではない。
国会議員だった。
「本艦は、新しい時代における我が国の海上防衛を担う最初の一隻となります」
静かな声が造船所に響く。
「我々が受け継ぐべきものは、名前や伝統だけではありません」
少し間を置く。
「海を守る責任です」
高瀬は黙って聞いていた。
やがて、起工を示す作業が始まった。
鋼板へ最初の加工が施される。
金属音が響いた。
それだけだった。
砲声もない。
歓声もない。
だが高瀬には、その音が妙に大きく聞こえた。
戦後初めて。
日本の造船所で、
帝国海軍のための駆逐艦が造られ始めた。
正式艦名。
駆逐艦――
「春風」。
*
同日。
横須賀。
軽航空母艦「隼鷹」。
「今日だったな」
黒木少佐が新聞を畳んだ。
相沢慎一少尉が振り返る。
「何がです?」
「新しい駆逐艦だ」
黒木が新聞を渡す。
小さな記事だった。
『国産警備艦艇、長崎にて起工』
政府発表では、海軍の新型駆逐艦について詳しい性能は公表されていない。
だが、艦名だけは書かれていた。
春風。
「高瀬大尉の船ですね」
相沢が言った。
「もう知り合い扱いか」
「何度も試験に付き合わされましたから」
相沢は記事を読む。
完成予定は昭和三十一年。
「二年もかかるんですね」
「軍艦だからな」
黒木が答える。
相沢は窓の外を見る。
岸壁の向こうには雪風が停泊していた。
戦争を生き残った駆逐艦。
今も第一艦隊の重要な護衛艦である。
「雪風も、いつか交代するんでしょうか」
相沢が言った。
黒木も雪風を見る。
「そうなる」
「寂しいですね」
「そうか?」
黒木は意外そうに言った。
「俺は逆だな」
相沢が見る。
「古い艦をいつまでも働かせる海軍なんて、ろくなもんじゃない」
「ずいぶんな言い方ですね」
「雪風はもう十分働いた」
黒木は少し笑った。
「次の連中に任せられるなら、それが一番いい」
*
長崎。
式典が終わったあとも、高瀬は造船所に残っていた。
設計図を何百回も見た。
重量計算もした。
装備配置も決めた。
だが今まで、春風は紙の上にしか存在しなかった。
今日から違う。
目の前で鋼材が切られている。
「高瀬大尉」
造船所の技師が声をかける。
「どうです?」
「何がです」
「自分の船が造られる気分は」
高瀬は少し考えた。
「怖いですね」
技師が笑う。
「嬉しいじゃなくて?」
「図面なら間違えても消せます」
高瀬は造船台を見る。
「こいつは、もう消しゴムじゃ消せない」
技師は笑わなかった。
「だから造船は面白いんですよ」
高瀬も少し笑った。
造船所の奥では、作業が続いている。
まだ艦首もない。
艦橋もない。
主砲もない。
だが確かに、
駆逐艦「春風」は生まれ始めていた。
*
その日の夕方。
海軍省では、すでに次の書類が回されていた。
『新型駆逐艦二番艦建造計画』
春風は、実験的な一隻で終わる予定ではなかった。
一隻が二隻へ。
二隻が四隻へ。
戦争を生き残った艦を中心としていた帝国海軍が、
自ら造った艦隊へ変わろうとしている。
その最初の鋼板が、昭和二十九年四月十日、
長崎で切られた。




