一枚目の図面
昭和二十八年十一月。
東京、海軍省艦政本部。
窓の外では、冷たい雨が降っていた。
高瀬誠一技術大尉は、製図台の上に広げられた一枚の図面を見つめていた。
長さ、およそ百メートル。
二千トン級。
二本の煙突。
前後に配置された主砲。
中央には艦橋と各種電子装備。
そして艦尾には、これまでの日本駆逐艦とは異なるほど大きな対潜兵装区画が確保されている。
まだ決定案ではない。
線を引き直した跡も多い。
重量計算も終わっていない。
それでも。
初めてそこには、一隻の軍艦が描かれていた。
「ずいぶん普通になったな」
背後から声がした。
高瀬が振り返る。
以前の設計会議にも参加していた老技術者だった。
「普通ですか」
「昔なら、もっと武器を載せようとした」
老人は図面を覗き込む。
「主砲を増やせ。魚雷を増やせ。速力を上げろ。そのくせ船体は大きくするな、とな」
「無茶ですね」
「我々はそれを何度もやった」
老人は笑った。
「君たちには、あまり真似してほしくないものだ」
高瀬は図面へ視線を戻した。
この三か月。
計画は何度も形を変えた。
主砲を減らした。
魚雷兵装も見直した。
その代わりにソナーを強化した。
対潜兵装のための空間を増やした。
レーダーと通信設備のために、艦内の電力供給にも余裕を持たせた。
さらに、将来の装備更新を考えて重量にも余裕を残す。
そして。
艦橋の後方には、以前より広いCICが設けられている。
響での試験結果だった。
「高瀬大尉」
設計員が資料を持ってくる。
「航空隊から回答が来ました」
高瀬が受け取る。
第一〇一海軍航空隊。
意見書。
その中には、航空機と艦艇の通信手順、位置情報の扱い、CICに必要な設備について細かな要求が並んでいた。
最後には手書きの一文がある。
『艦橋から空が見えるだけでは困ります。航空隊から送った情報も見てください。 相沢』
高瀬はため息をついた。
「少尉のくせに偉そうな奴だ」
「知り合いですか」
「面倒な奴だ」
そう言いながら、高瀬は意見書を図面の横へ置いた。
午後。
第一次設計案の審査会が始まった。
艦政本部。
軍令部。
第一艦隊。
海軍技術研究部。
それぞれの士官が会議室に集まっている。
正面には、大きく引き伸ばされた新型駆逐艦の図面。
高瀬が立つ。
「新型駆逐艦、第一次基本設計案について説明します」
部屋が静かになる。
「本艦は、第一艦隊に随伴する外洋型駆逐艦として設計します」
指示棒が図面を動く。
「主任務は対潜警戒、艦隊護衛、および船団護衛」
さらに艦橋を示す。
「レーダー、ソナー、通信設備については、現在運用中の艦艇より大きな余裕を確保します」
「速力は?」
質問が飛ぶ。
「計画三十二ノット」
「三十五は出せんのか」
高瀬は即答した。
「出せます」
何人かが顔を上げる。
「ただし、何かを捨てれば」
会議室が少し静かになった。
「機関を大型化すれば重量が増えます。燃料搭載量か、対潜装備か、将来の改装余裕を削ることになります」
「三ノットを捨てると?」
「三ノットではありません」
高瀬は答える。
「三ノットのために必要になるものを捨てます」
誰もすぐには反論しなかった。
別の士官が尋ねる。
「魚雷はどうした」
来た。
高瀬はそう思った。
「限定的に残します」
図面中央部を示す。
「ただし、旧海軍型の重雷装は採用しません」
「理由は」
「本艦の主任務ではないからです」
質問した士官は図面を見る。
「駆逐艦なのにか」
「駆逐艦だからです」
高瀬は答えた。
「この艦が戦う相手は、敵の戦艦ではありません」
指示棒が艦首から艦尾へ動く。
「潜水艦です」
会議室の後方で、一人の士官が腕を組んだ。
「ずいぶん変わったものだな」
その声には、皮肉より寂しさがあった。
「昔の駆逐艦とは、まるで違う」
高瀬は少し考えた。
「はい」
そして続ける。
「ですが、海が変わりました」
戦争が終わって八年。
敵も変わった。
技術も変わった。
海軍の任務も変わった。
ならば、軍艦だけが昔のままでいいはずがない。
審査は三時間続いた。
航続距離。
復原性。
機関。
兵装。
乗員数。
通信設備。
建造費。
造船所の能力。
そして最後に。
「一つ重要な問題が残っている」
艦政本部長が言った。
高瀬は身構えた。
「艦名だ」
一瞬。
高瀬は何を言われたのか理解できなかった。
「……もう決めるんですか」
「建造承認へ進めば、いつまでも新型駆逐艦一号艦とは呼べん」
もっともな話だった。
机の上に一枚の紙が置かれる。
帝国海軍では、駆逐艦の命名には伝統的に気象や自然現象に関する名称が多く使われてきた。
戦後も、その慣習は残されている。
候補が読み上げられる。
「朝風」
「早風」
「春風」
高瀬の視線が止まった。
春風。
戦前にも、その名を持つ駆逐艦があった。
だが、その艦をそのまま復活させるわけではない。
古い名前を受け継ぎ、
新しい艦を造る。
この海軍そのもののような名前だった。
「まだ候補だ」
艦政本部長が言う。
「正式決定ではない」
高瀬は頷いた。
だがもう一度、図面を見る。
白紙だった紙には、
今、一隻の駆逐艦が存在していた。
まだ鋼板一枚切られていない。
機関もない。
乗員もいない。
海に浮かんですらいない。
それでも。
その艦には、
もう名前が生まれようとしていた。
――春風。
戦後初の国産駆逐艦計画は、
ようやく設計図の中から、
現実の海へ向かって動き始めた。




