海の声
昭和二十八年八月十九日。
横須賀沖。
駆逐艦「響」は、朝から同じ海域を何度も往復していた。
速力十二ノット。
針路、一八〇度。
艦内の一室では、何人もの乗員が一つの装置に意識を集中させていた。
ソナー。
響には現在、海軍技術研究部による新型装置が試験搭載されている。
戦後に入手した海外製機器や資料を参考に、日本の艦艇で運用できるよう研究が続けられているものだった。
「感あり」
聴音員が告げた。
高瀬誠一技術大尉が記録用紙を見る。
「方位」
数字が読み上げられる。
「距離は」
続いて報告。
高瀬は時計を確認した。
「記録」
鉛筆が走る。
海図上に小さな印が書き込まれた。
数分後。
「感、消失」
高瀬が顔を上げる。
「またか」
今日三度目だった。
試験用の水中目標が存在することは分かっている。
おおよその位置も分かっている。
それでも、響自身の速力や海の状態が変化すると、探知は途端に不安定になる。
「装置の故障でしょうか」
若い技術員が尋ねた。
「それなら話は簡単なんだがな」
高瀬は海図を見る。
海は図面とは違う。
水温。
波。
潮流。
自艦が発する音。
机上では無視できたものが、実際の海ではすべて結果に影響する。
「もう一度やる」
「はい」
「今度は速力を落として記録を取ろう」
午後。
試験海域へ一機の航空機が現れた。
濃紺の大きな機体。
軽航空母艦「隼鷹」に所属する第一〇一海軍航空隊のTBM-3S――艦上対潜機「海燕一型」である。
高瀬は艦橋から上空を見た。
「航空隊も参加するんですか」
「ああ」
試験担当士官が答える。
「今日からは艦だけで探す試験じゃない」
航空機が捜索し、情報を水上艦へ渡す。
水上艦が得た情報も航空機へ返す。
互いの情報を組み合わせ、一つの水中目標を追跡する。
これからの対潜戦では、その連携が必要になると考えられていた。
海燕の操縦席では、相沢慎一少尉が眼下の響を見ていた。
戦争を生き残った特型駆逐艦。
だが、相沢が写真で見た昔の響とは姿が違う。
艦上には新しい機器が増え、各所に試験用の設備まで取り付けられている。
「ずいぶん変わったな」
相沢が呟いた。
「技術研究部の実験台みたいな艦らしいですよ」
同乗員が答える。
「実験台?」
「新しい装備ができると、とりあえず響に載せるとか」
「本人が聞いたら怒りそうだな」
無線が入る。
『響より海燕三号。指定捜索区域へ進入せよ』
「海燕三号、了解」
相沢は機体を旋回させた。
試験が始まった。
最初の三十分。
何も起こらない。
響は海中を探る。
海燕は指定海域を捜索する。
それぞれが情報を集め、通信で交換する。
仕組みそのものは単純だった。
ところが。
『海燕三号より響。水中目標推定位置を通報する』
航空隊から位置が送られる。
響のCICで通信員が復唱する。
別の乗員が記録する。
その数字を受け取った海図担当が、定規を使って位置を割り出す。
海図上に印がつく。
「面舵。針路――」
響が向かう。
しかし到着するころには、目標の推定位置が変わっている。
しばらくして、今度は響が水中目標を捉えた。
「感あり!」
方位と推定位置が読み上げられる。
記録。
確認。
通信室へ伝達。
そして航空隊へ送信。
『響より海燕三号――』
相沢が情報を書き取る。
海図を確認する。
「待て」
相沢が眉をひそめた。
「そこ、さっき通過したぞ」
「目標が移動したんじゃ?」
「それにしては遅すぎる」
響でも同じ疑問が生じていた。
高瀬は海図を見つめる。
「海燕から次の報告は?」
「まだです」
「前の報告から何分経った」
「……四分です」
高瀬が時計を見る。
四分。
潜水艦を追う側にとって、それは決して短い時間ではない。
「どうしてこんなにかかる」
「航空隊からの通報を受信して、復唱、記録して、それから海図へ――」
「それは分かっている」
高瀬は苛立って言った。
機械は動いている。
通信も通じている。
航空隊も目標を探している。
響のソナーも働いている。
それなのに。
一つの目標を、二つの部隊が別々に追っているようだった。
午後三時十二分。
響が再び探知した。
「水中目標、方位――」
報告が始まる。
高瀬は時計を見る。
その情報が記録される。
通信員へ渡る。
海燕へ送られる。
そして返答が来る。
『海燕三号、了解』
高瀬はもう一度時計を見た。
「……遅い」
「大尉?」
「全部だ」
高瀬は海図を見る。
「探知してから、航空隊が理解するまでが遅すぎる」
試験は予定より早く終了した。
夕方。
横須賀。
相沢は飛行服のまま響へやってきた。
舷梯を上がると、高瀬が待っていた。
「第一〇一海軍航空隊、相沢少尉です」
「海軍技術研究部、高瀬技術大尉」
敬礼を交わす。
そして。
「通報が遅いです」
相沢が言った。
高瀬の眉が動いた。
「いきなりそれか」
「試験結果について話せと言われましたので」
「こっちから言わせてもらえば、航空隊の位置通報が分かりにくい」
「こちらは規定通りです」
「響も規定通りだ」
「なら、どうしてあんなにずれるんです」
「それを今から調べるんだ」
二人はそのままCICへ入った。
机の上に記録が並べられる。
響のソナー記録。
CICの海図。
通信記録。
航空隊側の飛行記録。
相沢が一枚を指差した。
「ここです」
午後二時四十三分。
海燕が最初の位置情報を送った時刻。
高瀬が響側の通信記録を見る。
「受信は二時四十四分」
「一分?」
「まだある」
通信員が受信。
復唱。
記録。
海図担当へ伝達。
位置をプロット。
艦橋へ報告。
響が針路を変更したのは、さらに後だった。
「三分以上……」
相沢が呟く。
高瀬は別の記録を見る。
「こっちは響から航空隊へ送ったときだ」
同じような遅れがある。
しかも、それだけではなかった。
「この時刻は何だ?」
高瀬が航空隊の記録を指す。
相沢が見る。
「機内で記録した時刻です」
「響の時計と少し違う」
二つを比較する。
わずかな差だった。
だが、数分の通信遅延と組み合わされれば、記録を後から比較するときに混乱を生む。
さらに。
位置を表す方法。
方位の基準。
目標を呼ぶ符号。
報告の順番。
細かな部分で、航空隊と水上艦側の手順が統一されていなかった。
どちらかが間違っているわけではない。
それぞれが、それぞれの規定に従っている。
だからこそ厄介だった。
相沢が椅子にもたれた。
「機械の故障じゃないんですね」
「ああ」
高瀬は大量の記録を見る。
「機械は全部、ちゃんと仕事をしている」
ソナーは音を拾った。
通信機は声を届けた。
航空機も情報を送った。
CICも受け取った情報を海図へ記録した。
一つ一つは正常だった。
「なのに、全部つなぐとうまくいかない」
高瀬が言った。
相沢は海図を見る。
そこには同じ水中目標を示す印がいくつも残されていた。
少しずつ位置が違う。
時刻も違う。
まるで複数の潜水艦がいるようにも見える。
「大尉」
「何だ」
「新しい駆逐艦にもCICを作るんですよね」
「当然だ」
「新しいソナーも?」
「そのための艦だ」
「だったら」
相沢は少し考えてから言った。
「機械を新しくするだけじゃ、同じことが起きませんか」
高瀬は答えなかった。
新型ソナー。
新型レーダー。
通信機。
発電能力。
将来の装備追加。
新型駆逐艦の要求書には、それらが並んでいる。
だが。
そこへ入ってきた情報を、誰がどう扱うのか。
他の艦や航空機へ、どう伝えるのか。
艦隊全体で同じ状況を、どう理解するのか。
そこまで考えていただろうか。
「航空隊の人間を、設計会議に呼べませんか」
相沢が言った。
高瀬が顔を上げる。
「駆逐艦の設計に?」
「駆逐艦だけで戦うなら必要ないでしょうけど」
相沢は机の海図を指した。
「違いますよね」
高瀬はしばらく黙っていた。
やがて椅子へ座る。
「……分かった」
「本当ですか」
「ただし条件がある」
「何でしょう」
「次の試験にも来い」
相沢は露骨に嫌そうな顔をした。
「またですか」
「現場の意見が必要なんだろう」
「そうですけど」
「なら最後まで付き合え」
「……了解しました」
高瀬は資料をまとめ始めた。
その手が、一枚の紙の上で止まる。
新型駆逐艦要求書。
余白に、高瀬は鉛筆で書き加えた。
『戦闘情報の収集、整理、共有能力を重視すること』
『航空部隊及び他艦艇との通報手順を統一すること』
高瀬はその二行を見つめた。
軍艦の性能とは、速力や大砲だけではない。
ソナーの探知距離だけでもない。
見つけたものを。
味方へ伝え。
同じものを見て。
同じ状況を理解する。
それができなければ、艦隊は一つにはならない。
夜。
響は横須賀の岸壁に静かに浮かんでいた。
古い船体の中では、今日集められた記録がまだ整理されている。
その一枚一枚が、
まだ名前もない新型駆逐艦の姿を、
少しずつ変え始めていた。




