第98話:英雄の使い方
帝都参謀本部、特別監察室。
――英雄・街道少尉。
望んだわけではないが、もはや背負わされたこの知名度を、自ら利用する側に回るのが最も合理的だろう。
そもそも、俺は快適で安全な隠居生活を求めて軍に入ったはずだ。それなのに、その平穏を手に入れるために自ら戦争の仕様書を書かねばならないという狂った逆説から、未だに抜け出せていない。
ならば初心に立ち返り、“俺の”生活のために、徹底的な経済的合理性と、飢えも貧困もない安定した世界をこの手で構築してやるしかない。
俺は『南方輸入活性化計画』の具体的な仕様書の作成に着手した。もちろん、これを陸軍の俺一人の功績として提出するような愚は冒さない。海軍の大佐殿と、退役兵士再雇用支援局局長のエルフの名を、これみよがしに共同発案者として並べるのだ。
「少尉。帝国のため、ではないのですね」
「中尉。俺は、俺のためにやるだけです」
俺の言葉に、中尉は楽しげに口元をにこにこと笑わせ、こちらの様子をひどく感心したように見つめていた。
この計画の肝は、退役兵たちの新たなる受け皿として、南方の貿易港や広大な流通倉庫を全面的に活用する点にある。戦傷を負った退役兵とその家族たちから、エルフの局長は絶大な信頼を寄せられている。
彼女の発案という形を取れば、予算を握る保守的な陸軍上層部や他部署の承認も、人道支援の名目のもとで恐ろしいほど滑らかに通るはずだ。
そして、海の流通網といえば海軍の絶対的な縄張りである。
最効率の航路仕様書をあらかじめ添付しておき、あの北海で苛烈な海賊退治を成し遂げた大佐殿が、今度は「南の海をも完璧に安全にする」のだと、本国や現地の民衆が勝手にそう思い込んでくれればそれでいい。
俺は一度たりとも嘘はつかない。すべては絵師や語り部たちが、公表された名前から勝手に輝かしい未来を予測しただけ、という形にするのだから。
「少尉。南方といっても、その規模は様々です。具体的に何を輸入するつもりなのですか」
「中尉。民衆にとって、これ以上なく分かりやすい品がありますよ」
それは、毎日の「食事」だ。
今や食料を他国へ輸出できるほどに豊かになった帝国において、ただ空腹を満たすためだけに輸入量を増やすという大義名分は通用しない。新たな市場を開拓するには、民衆の胃袋を掴むための「強力な動機」が必要だった。
そこで俺が目をつけたのが、南方の香辛料を用いた「健康維持」への取り組みだ。冬の寒さに凍える帝都の、特に冷え性に悩む女性層に向けて、温活や代謝向上効果を大々的に宣伝する。
体内から温度を上げる新たな「健康習慣」として定着させるのだ。
だが、馴染みのない異国の宮廷料理をそのまま提案しても、一部の好事家にしか響かない。誰もが知っている定番の国民食と組み合わせることで、未知の食材に対する心理的抵抗感を極限まで下げる。
例えば、南方の香辛料を贅沢に効かせた肉の串焼きや、これまでにない新感覚の温まるスープなど、帝都の人間が日常的に口にしている料理を元に変形させるのだ。
屋台の店先で複数の香辛料を並べ、客自身に好みの味を調整させるという「体感」を消費させる。視覚や行動で楽しめる要素を組み込めば、流行は爆発的に加速する。
参謀本部の士官食堂に帝都の記者たちを多数招き、障害者支援の象徴であるエルフの局長に、その「新感覚のスープ」を公の場で実食してもらう。
かつて勇者と共に世界を旅した高潔なエルフが、健康のために南方のスパイスを愛飲している――その構図だけで、彼女は「食の流行」を創り出す最高の影響力となるのだ。
「少尉。エルフの局長は、南方の香辛料が好きなのですか?」
「中尉。彼女はどこまでも任務に忠実です」
分かりやすい人気商品で先に市場の「需要」を創り出し、その後に金融、保険、兵站の基盤を滑り込ませる。この合理的な二段構えの手法なら、参謀本部は必ずこの仕様書を採用するはずだ。
南方交易が莫大な利益を生むという経済の仕組みさえ一度作ってしまえば、あとは欲深い商人たちが勝手に自腹で南方の商品を運び始める。軍の予算を削るよりも、市場原理で動かした方が遥かに安上がりなのだ。
これならば、海軍がどさくさに紛れて南方港湾の軍事整備を強化したとしても、大義名分が通っている以上、国際社会も国内の反対派も誰も文句は言えないだろう。
――二か月後。
帝都を中心に、南方商品は香辛料だけに留まらず、お茶や染料、高級木材、さらには珍しい果実に至るまで、あらゆる品々が「最先端の流行」として定着し始めていた
「少尉。書類上の建前は香辛料ですが……実際のところ、天然ゴムの輸入量の方が圧倒的に多いのですが?」
中尉は、特別監察室に届いたばかりの最新の輸入統計書に目を落としながら、静かに語りかけてきた。
「中尉。香辛料は香辛料で、民間の市場で十分に儲かっているので何の問題もありませんよ」
天然ゴムは、俺の安全で豊かな社会を維持するためにも大量に必要だった。蒸気機関の安全弁、船の推進器の防水、さらには医療や食品保存のための密閉容器に至るまで、近代的な日常を支える不可欠な部品のすべてに、この黒い弾性資源が必要とされているのだ。
西側諸国は、おそらくあの霧宮の異世界人どもが『反帝国』の旗印の下にまとめ上げるだろう。そして東に目を向ければ、帝国よりも遥かに広大な領土と圧倒的な人口を擁する、あの『赤旗国』(第41話~)が控えている。
特に赤旗国は、土地や工場といったすべての生産手段を個人ではなく、社会全体の共有財産とする特異な国家だ。彼らは「資本主義の圧政に苦しむ他国の労働者を解放する」という強烈な大義名分を掲げている。
だがその実態は、資本主義国に攻め込まれて国が滅ぼされるかもしれないという、強迫観念にも似た強い恐怖に突き動かされているのだ。その恐怖の裏返しとして、彼らはいずれ必ず帝国へ攻め込んでくるだろう。
帝国から彼らへ攻め込む理由など皆無だが、これまで向こうからは何度も「偶発的」と称した武力行使を受けている。
現在は東の国境線沿いに、複数の超大型星型要塞を建設して睨みを利かせているため大規模な戦争には発展していないが、いずれ大規模な戦争へと変わる日はそう遠くないかもしれない。
帝国を侵略不可能な大国へと押し上げ、食糧と技術を他国へ輸出し、世界を複合的な相互依存の網の目へと絡め取っていく。
すべては、俺の安全で快適な隠居生活のために。
読んでくださり、ありがとうございました。




