第97話:天秤双剣章
帝都参謀本部、特別大講堂。
――【天秤双剣章】
それは陸軍において、最前線で自ら剣を交えながらも、軍人としての高い誇りと大義を失わずに戦い抜いた将校に贈られる栄誉である。
あるいは、敵地占領時や撤退戦といった極限の混乱期に、完璧な部隊統率を行い、かつ敵の猛攻を退けた、人徳と武勇を兼ね備えた不屈の指揮官にのみ授与される。
要するに、過酷な実戦の最前線に身を置き、直接部隊を指揮して多大な戦果を挙げた武官を評価するための勲章だ。
つまり――安全な後方司令部に引きこもり、敵を一人も倒すことなく、剣も銃も一度すら握っていない俺のような事務方には、本来なら天地がひっくり返っても無縁の勲章であるはずだった。
「街道少尉。勲章授与、おめでとう」
壇上の将官から重々しい言葉とともに、胸元に『天秤双剣章』が針で留められた。割れんばかりの拍手が大講堂を包むなか、頭を下げた俺の心中はひたすら底冷えするような虚無で満たされていた。
(――くり返すが、俺は一切前線に出ていない。敵も倒していない。ただ大佐殿と煙草の煙に巻かれながら、最効率の仕様書を書いていただけだ……)
もちろん、表向きの授与理由(大義名分)なら、書類の上にいくらでも並べられていた。
『――街道少尉の構築した“最効率の戦場”により、傷病老兵部隊は完璧に統率され、連邦海軍の猛攻を水際で退けた。さらに、少尉の言葉は現地の反乱の芽を未然に摘み、無血開城という最大の人徳を示した』
全く、心当たりがなさすぎる。
海軍から『白鳥鋼鉄勲章』を授与されたときは、まだ「情報の囮」として名が売れていただけだと自分に言い訳することもできた。だが、今回はあまりにも無理がありすぎる。
比帆諸島の首都島へ無血進駐できたのは、俺の人徳などではなく、連邦国内で陸軍による連鎖的な武力蜂起が勃発し、実質的な降伏が先に成立したからに過ぎない。
「――なぜ、ただの事務方なんかにあの勲章が……」
「――商人たちの間では英雄扱いと人気があるようだが、前線に出た噂など聞かないぞ……」
「――陸軍の練兵場で見たことがあるが、あいつの魔導銃の腕は新兵と変わらない……」
「――参謀本部と海軍司令部の間で、何らかの政治的取引があったとの噂だ……」
拍手の隙間から、列席者たちによる冷ややかな陰口がはっきりと聞こえてくる。衆目の中で「武勇と人徳の指揮官」として祭り上げられながら、その実態は新兵並みの戦闘力しか持たない事務方。
針のむしろを通り越して、もはや公開処刑の場に立たされている気分だった。
「少尉。海軍に続いて、陸軍でも破格の評価をされましたね」
中尉は、自分の筋書き通りに動いて壊れた玩具を前にした子供のような無邪気さと、事務的な冷ややかさが奇妙に同居する、いつもの読めない笑みを見せた。
「中尉は、この茶番をいつから知っていたのですか」
(……むしろ、中尉自身が参謀本部に提案して企てた作戦である可能性すら、十分にありうる)
海軍が『白鳥鋼鉄勲章』を授与した時点では、あちらの都合で「海軍が認めた海の街道の英雄」という美しい物語が作られた。
そして連邦や新領土の住民、さらには帝都の民衆の間でも、「白鳥鋼鉄勲章を持つ街道少尉」という虚像がまたたく間に広まっていった。
だが、そのプロパガンダ作戦が想像以上に大成功を収めてしまったからこそ、今度は陸軍の参謀本部が焦り出したのだ。
海軍の英雄物語がこれ以上世間に定着する前に、彼が「あくまで陸軍参謀本部所属の将校である」という事実を、国民と周辺国に対して強烈に再確認させる必要があった。
つまり、この『天秤双剣章』は戦功を称える勲章などではない。陸軍としての面子を保ち、主導権を海軍に渡さないための、ただの参謀本部の広報予算――プロパガンダの維持費に過ぎないのだ。
砂糖の山に群がる蟻のような記者たちから逃げるように、俺は士官食堂へと移動した。
重厚な厚い扉が閉まった瞬間、耳の奥にこびりついていた「陸軍の新たな英雄へ一言!」という熱狂的な記者たちの黄色い声は、まるで嘘のように遮断された。
代わりに鼓膜を震わせたのは、スープをすする微かな音と、磁器の食器が触れ合う規則正しく上品な音。そのあまりの静寂の差に、ようやく張り詰めていた肩の力が抜けるのを感じる。
「逃げ足だけは英雄並みですね、少尉」
食堂の最奥、逆光になる窓際の特等席。そこには、先ほどの大講堂で俺に冷ややかな笑みを向けたはずの中尉が、すでに何食わぬ顔で座っていた。
そして、その向かいの席には、退役兵士再雇用支援局局長――あのエルフの姿もあった。
「少尉さん。勲章授与おめでとう、仕事が評価されるのは嬉しいことよね」
「局長殿。本官の『仕事』が評価された訳ではありませんよ」
俺の乾いた言葉に、局長は「あら?」と長い耳をわずかに揺らした。その汚れなき純粋な疑問の視線が、嘘で祭り上げられた身としては余計に居心地が悪くなる。
俺が胸元の重々しい勲章を苦々しく見つめながら小さく吐き捨てると、隣に座る中尉がわずかに肩を揺らした。
「街道少尉。我が海軍では、お前のことを正当に評価しているぞ。いつでも歓迎する」
いつの間にか、すぐ背後に大佐殿の気配があった。
「大佐殿。この少尉は参謀本部直轄、特別監察室の室長です。勝手な引き抜きは困ります」
中尉が珍しく、あからさまな横槍を入れてきた。
(……普段なら陸海軍の縄張り争いなど静観する男だ。やはり、この勲章をねじ込んだ黒幕は中尉の作戦か)
「それに大佐殿、海軍の『白鳥鋼鉄勲章』に対抗して陸軍がこの『天秤双剣章』をあえて与えたのです。今ここで少尉が海軍に籍を移せば、陸軍参謀本部が面子を完全に潰されたと大騒ぎしますよ」
中尉の淡々とした、しかし理路整然とした反論に、大佐殿は「チッ」と不機嫌そうに短く舌打ちをした。その口から吐き出された煙草の煙が、士官食堂の低い天井へと立ち上っていく。
(転籍の辞令が出たなら軍人として従うが、海軍艦型試験池に配属になれば、この大佐殿の下で最前線での新型兵器実戦試験に付き合わされるのが目に見えている。正直、とても嫌だ)
「あの、大佐殿……。本官はやはり、ここで事務方の仕様書を書いている方が性に合っておりまして……」
俺が消え入るような声で必死の抵抗を試みると、それまで三人のやり取りを不思議そうに眺めていたエルフの局長が、ぽんと嬉しそうに手を叩いた。
「あら、それなら安心ね少尉さん。退役兵士の雇用枠を増やすための仕様書なら、うちの局に山ほどあるわよ? 陸海軍の醜い喧嘩に巻き込まれるくらいなら、いっそ私たちのところへ人事異動してくればよいわ」
無邪気な局長からの、まさかの第三の選択肢(という名の、新たな泥沼)。
背後からは最前線へ引っ張ろうとする海軍の大佐。正面からは俺を陸軍の広告塔として政治利用する気満々の中尉。そして斜め向かいからは、純粋な善意で事務作業の山を押し付けようとするエルフの局長。
外の狂った記者たちから必死に逃げ延びたはずの士官食堂は、いつの間にか、大講堂以上の針のむしろと化していた。
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