第96話:境界線戦争 その十
『比帆諸島連邦』臨時政府による帝国の『政府開発援助(ODA)』の受け入れ手続きは、連邦陸軍の署名によって、恐ろしいほどの速度で処理された。
すでに海域の各島々では、灯台の本格的な最新鋭化工事が始まっている。首都島の港湾整備や道の駅の建設といった帝国の公共工事には、家を失った無数の難民たちが群がり、当面の生活賃金を稼ぐために黙々と泥を運んでいた。
胃袋を満たされ、明日の日銭を与えられた民衆の頭から、「宣戦布告」の熱狂は急速に色褪せ、代わりに帝国の資本がもたらす「近代的な日常」が静かに染み込みつつあった。
「少尉。これで新しく帝国領となった島は、最前線の強固な軍事拠点として整備されますね」
「中尉。決定的な問題が残ったままです」
圧倒的な「住民不足」である。
元々島に住んでいた者の半数は帝国民となることを選んだが、残りの半数は他の島へと移り住んでいく。それを帝国軍の武力で強制的に止めることはできない。帝国は、力ずくで奴隷を囲い込むような、前時代的な植民地を作りに来たわけではないのだ。
帝国本土からこの島へ、自発的な移住者を大量に呼び寄せる。そのために俺が書類の上で弾き出したのは、入植者の「税三年完全免除」、そして進出する商人たちへの「店舗建設費用の補助金支給」という、あまりにも甘く魅力的な特権制度の仕様書だった。
「少尉。無税で人は集まりますが、税金が無くなればインフレが加速しますよ」
「中尉。物資の供給を強制的に増やします」
潜在的な反感を未然に抑え込み、インフレ対策と実質的な経済的植民地化を両立させるために参謀本部が決定したのが、軍の圧倒的な供給力を用いた「軍備蓄物資の放出」と「食料の基本無料化(配給制)」である。
帝国通貨の価値を絶対に落とさないための、最も優しい首輪。
市場の流通を完全に無視し、軍の力で食料を無料、あるいは超格安でバラ撒く。そうすれば、戦火で荒廃した諸島の民の胸には、「帝国の通貨(あるいはその支配)を持っていれば絶対に飢えない」という、宗教にも似た強烈な「信用」が自動的に刷り込まれていくのだ。
そして、食料が軍から無償で支給されるからこそ、公共工事(ODA)で雇用する現地労働者の「現金給与」の額面を、国際社会から非難されない範囲で極限まで低く抑えることができる。
元々農業基盤が崩壊寸前だった比帆諸島において、現地住民が生き延びる道は二つに一つ。帝国軍の優しい食料配給の列に大人しく並ぶか、それとも日銭のために、自ら進んで帝国のインフラ工事の労働者となるか、だ。
「少尉。現地商人が反発します」
「中尉。ならば帝国商人になれば良いのです」
――あの占領地は、暴動一つ起きない。軍の近代的な統治が完璧に行き届いている。
現地がどれほど悲惨な敗北に打ちのめされていようとも、書類上のその情報(絶対的な安全)こそが、帝国本土の欲深い商人や開拓移民たちが、安心してこの島へ進出するための何より強い理由となるのだから。
帝都参謀本部、特別監察室。
「少尉。『免税と補助金』に釣られた商会や開拓民の移住申請書が、特別監察室の床を埋め尽くさんばかりに届いていますよ」
中尉が、いつものように口元だけにこにこと笑いながら、分厚い書類の山を俺の机に置いた。
俺から絞り出されるはずの、期待通りの悲鳴か、あるいは予想外の抵抗か。その「答え」を値踏みするように、中尉は分厚い書類の束のすぐ横へ、一枚の号外新聞を静かに滑らせた。
――平和な日常の到来など、ただの錯覚に過ぎなかったのだ。
比帆諸島連邦海軍の第二海軍卿が、残存兵力のすべてを結集して『霧宮王国』へと亡命。そしてすぐさま、世界へ向けて声明を発表したのである。
『――長年にわたり比帆諸島軍の先頭に立ってきた指導者たちが、新たな政府を樹立した。この臨時政府は、我が国の軍隊が壊滅したと主張し、敵の軍事停止案(降伏)に同意してしまった。もちろん、我々が一時的に帝国軍によって制圧されたのは事実である』
『――しかし、最後の言葉はまだ語られていない。信じてほしい。私はすべての事実を十分に知った上であなた方に話し、比帆諸島にとって何一つ失われてはいないことを伝える』
『――今ここに、反旗の烽火たる『自由比帆諸島』の成立を宣言する。比帆の非暴力不服従の炎は消えてはならず、消えることもないのだ』
(霧宮の異世界人は、この海域を完全に損切りしたわけじゃなかった。連邦の陸軍に裏切られたから、今度は海軍の生き残りを丸ごと買い取って、自分たちの国へ亡命政府を設立させ、外側から不正規戦を継続させるつもりか)
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