第95話:境界線戦争 その九
「我々は、帝国政府の権威に対して、暫定的に(臨時政府への)権力の委譲を行う。帝国政府が、その中立国としての友好的な立場から、この暴力的な行為について厳正に調査し、連邦と連邦国民の正当な権利を回復してくれると確信する」
比帆諸島・帝国軍仮設司令部。
俺がこの比帆諸島に到着してから、僅か三日後のことだった。連邦政府の新たな代表となった連邦陸軍最高司令官は、世界に向けてその声明を発表した。
帝国蒸気船艦隊の前に海軍が一瞬で壊滅したこと。そして、その後に霧宮の異世界人が描いた「泥沼の消耗戦」が始まれば、どれほど多くの民が死に絶えるか。
それを危惧した連邦陸軍が、国内で連鎖的な武力蜂起を敢行し、あの海軍元帥提督を電撃的に殺害したのだ。
新代表の声明文の論理は、驚くほど徹底していた。
一連の武力衝突は、すべての富を海軍が独占するために引き起こした醜悪な暴挙である。新聞社や語り部たちを買収し、比帆諸島の誇り高き伝統を歪めて民衆を煽動した卑怯な情報戦も、すべてはあの愚かな海軍が独断で行ったことなのだ、と。
我々、民の盾である連邦陸軍が、人道的な帝国と共に連邦国民の尊厳を取り戻す――。
霧宮の異世界人が仕掛けた「泥沼の蟻地獄」は、その入り口に到達するよりも早く、内側の陸軍という身内からの凄惨な武力蜂起によって、完全に叩き潰されたのだった。
「少尉。連邦は、武力での抵抗を諦めたようですね」
「中尉。連邦は、合理的に帝国政府への『訴え』という道を選択したに過ぎません」
この美しい大義名分により、帝国軍は「侵略者」としてではなく、「壊れた連邦の治安と権利を回復しにきた、合法的で友好的な救世主――『平和維持活動(PKO)』」として、首都島へ無血進駐する権利を手に入れたのだ。
しかし、無血開城されたはずの首都島の港は、拍手喝采ではなく静まり返った墓標のようだった。
勝者と敗者は確かにいた。だが、何かを失わずに済んだ者は誰一人としていなかった。生き残った連邦兵たちは、ただ終わりのない戦いに疲れ果て、悲哀や後悔を感じる神経すら麻痺しており、泣くことすら叶わない。
「街道少尉。この戦争の結末、お前はどう見る?」
「はい、大佐殿。投資が無駄にならずに済みました」
大佐殿は、煙草に火をつけ、灰色の空を見上げた。
「……街道少尉。お前は、それでいい」
連邦兵たちは、ただ地面を見つめていた。誰かが「終わったな」と呟いた。大義名分という名の朽ち果てた夢も、ただの瓦礫となって足元に転がっている。生き延びたという呪いだけを抱えて、男たちは動かなかった。
「少尉は、この結果を予測していたのですか」
「いいえ、中尉。無理でした」
霧宮の異世界人が構築した戦争の蟻地獄が、上陸戦の前に、陸軍の逆武力蜂起という名の「例外処理」によって完璧に強制終了される工程が、ここに完成したのだ。
「中尉。泥沼の消耗戦までは予測できました。ですが、その前に連邦陸軍が海軍を殺す(逆武力蜂起を起こす)までは想定していませんでしたよ」
霧宮の異世界人も、これほど早い段階での「強制終了」は予定が狂ったのだろう。陸軍の発表と同時に、商船護衛という名目で現地に駐留していた霧宮の戦艦は、すべて蜘蛛の子を散らすように撤退していった。
帝国軍の工兵隊が港の桟橋を修理している。その横では商人たちが、邪魔な連邦兵が居なくなったのでやっと船が出せると笑っていた。
港の冷たい潮風の中に、場違いなほど香ばしい、甘い匂いが漂っていた。岸壁に係留された帝国の給食艦――その巨大な煙突から吐き出されるのは、硝煙ではなく、何百人分ものパンを焼き上げる温かな湯気だ。
昨日まで泥にまみれて軍船の荷下ろしをしていた難民たちが、配給の列へと静かに並ぶ。彼らは、帝国兵から手渡されたばかりの、まだ芯まで熱い焼き立てのパンと冷たい水袋を握りしめながら、口々に囁き合っていた。
「来るのが、遅いんだよ帝国軍め」
「パンをくれるなら誰でも良いよ」
「ただで橋を直すんだとよ、こうやって恩を売るつもりだ」
凍えた指先に伝わるパンの容赦ない温もりと、腹を鳴らす匂い。悔しさと飢えの狭間で、彼らは貪るようにパンに噛みついていた。
「少尉。島民は帝国軍を歓迎しているのでしょうか」
中尉は、一切の熱が引いた無表情のまま、冷たい目を向け、口元だけを不自然ににこにこ笑わせていた。
「中尉。彼らは、飢えているだけです」
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