第90話:境界線戦争 その四
『比帆諸島連邦』と、そこから独立した『比帆諸島共和国』の両国が孕む緊張は、いまや限界まで高まっていた。
だが、そんな一触即発の状況にあっても、この海の経済は皮肉にも発展を続けていた。
領土の三分の一を失う大打撃を受けた『比帆諸島連邦』は、国家の瓦解を防ぐため、帝国ではない第三国へと救いを求め、支援を要請した。
表向きはただの経済支援とされているが、その要請に応じた第三国の正体は、他ならぬ『霧宮王国』(第57話)であった。
霧宮王国による経済支援は、言葉通り本当に行われるのだろう。だが同時に、彼らは裏で大量の近代兵器の供与も始めるはずだ。
あの国に潜む異世界人は、『世界中で意図的に代理戦争を引き起こし、その戦争の泥沼化そのものを世界の均衡装置とする』という狂気の思想で動いている。彼らの究極の目的は、全面的な世界大戦の阻止だ。
そして今回の彼らの狙いは、帝国がこれ以上の覇権国家となることを食い止めることにある。
連邦政府に異世界人が開発した強力な兵器を横流しして泥沼の戦いへと引きずり込み、帝国の国力を内側から削り取ろうと画策してくるに違いない。
「少尉。また、霧宮ですか」
中尉は、この難局をどう切り抜けるのかを測る冷たい目で、俺の次の動きをじっと求めていた。
「中尉。霧宮の異世界人は極めて優秀です。彼らが帝国と直接戦うという愚は冒さないでしょう。
ならばこちらの取るべき道は前回の時と同じです。連邦にはこれ以上の『投資価値は無い』と相手に判断させ、自発的に手を引かせるしかありません」
相手が自分と同じ現代知識を持つ異世界人だからこそ、伝統や誇りといった感情論を理由にして泥沼の戦争に突入することはない。彼らにとって、戦争とは利益と損害を天秤にかける外交の手段の一つでしかないのだ。
「少尉。帝国と共和国政府の協力は順調です」
「中尉。特恵関税ですね」
そして、帝国もまた、経済を冷徹な外交の武器にしていた。
新設された『比帆諸島共和国』との間で、現地で生産される羊毛を帝国へ無関税で輸出できる特権を与える代わりに、共和国の港湾および領土をいかなる第三国にも譲渡・貸与しないという条約を締結する。
これにより、共和国は経済の生命線を握られたまま、事実上の帝国の「保護国」となった。
「少尉。あの島への勤務となった一人の老兵が、今や帝都で大変な人気を博しているのは知っていますか。もしかしたら『英雄・街道少尉』を凌ぐ人気になるかもしれませんよ」
中尉は楽しげににこにこと笑いながら、俺の反応を覗き込んできた。
「中尉。本当にそうなって欲しいものですね」
俺は心底からそう応じた。
老兵たちが北の島へと派遣された後、ある一つの版画新聞の記事が帝都で大きな話題を呼んでいたのだ。
現地の語り部(記者)が、帝国本土から遥か遠く離れた最前線での任務について、何か不満や未練はないのかと老兵に問いかけた際、彼はただ短くこう答えたという。
――「わしは、戦うことしかできないからな」
そして、その記事に添えられた挿絵には、山ほどの「菓子」を軍嚢に詰め込んでいる老兵の姿が描かれていた。
紙面を見た人々は、一様にこう解釈した。あの無骨な老兵は、不条理な内戦に怯える現地の子供たちへ菓子を配るつもりなのだ、と。不器用な生き方しかできない老兵は気恥ずかしさのあまり、わざわざ優しい理由など説明しないのだ、と。
民衆の胸には感動が広がり、我々にできることは彼の任務を応援することだけだと、帝都の軍施設には「老兵への餞別」として、山のような菓子が次々と持ち込まれる事態にまで発展していた。
だが、俺は知っている。
過酷な島勤務を命じられた傷病兵たちには、軍の福利厚生の一環として、希望する嗜好品が特別に現物配給される仕組みになっている。
煙草やお茶を選ぶ者が大半だが、過酷な労働で疲弊した肉体が、甘い菓子を欲することも珍しくはない。なにより、『退役兵士再雇用支援局』から回ってきた彼の個人調書には、はっきりと「大の甘党」だと記載されていた。
彼が本当に子供たちに配るつもりなのか、それともただ自分が食べるために溜め込んだのか――その本意は、誰にも分からない。
しかし、民衆が「優しく不器用な老兵の神話」を信じ、進んで軍を支持してくれるのであれば、これもまた完璧に美しいプロパガンダの成果だった。
読んでくださり、ありがとうございました。




