第86話:平和な日常
『比帆諸島連邦』での功績を高く評価した――そんな建前で政治利用された俺は、未だに帝都に留め置かれていた。
結局、測量任務に戻ることは叶わず、しばらくは帝都の職務に就くよう命令が下ったからだ。上層部の真意は分からないが、俺は一介の軍人だ。命令には従うほかない。
「少尉。参謀本部は、帝都での任務について、できる限り少尉の希望を考慮すると言っていますよ」
並べられた書類を揃える中尉の顔には、悪戯っぽくも、どこか残酷な悦びが透けて見えていた。
「それは、やる気も出ますね、中尉」
口ではそう応えながら、俺は内心で冷ややかだった。
――絶対に嘘だ。
俺はもう十五年参謀本部直轄で動いている。要するにこれは「聞くだけは聞いてやる」という、参謀本部特有の挨拶にすぎないのだ。建前だけで冷徹に動くあの怪物たちを、一瞬たりとも油断してはいけない。
「――少尉。実は、参謀本部からも『一枚』預かっていますよ」
――街道沿い通信灯整備計画。
――帝国中央銀行出張窓口計画。
――南方輸入活性化計画。
――帝都物価上昇対応計画。
――……
――……
一枚の紙に、案件を詰め込みすぎだ。
参謀本部、つまり陸軍は「我が軍の英雄には、紙一枚分のごく形式的な任務しか与えていませんよ」という姿勢を海軍に見せつけたいのだろう。
あるいは、俺への「恩給」の代わりとして、実務の伴わない肩書きを与えただけ、というつもりなのかもしれない。どちらにせよ、これほど真っ黒な政治的駆け引きのダシに、俺という存在を使うのは言語道断、今すぐ止めてもらいたいものだ。
しかし、通信灯の建設に予算が下りるというならば、それは大歓迎だった。
すでに帝国全土へ網の目のように広がっている『道の駅(PA/SA)』。ここに、先頃ついに公開が許可されたアルガン灯を設置できれば、光信号を用いて文字通り光速で情報を伝えることが可能となる。
夜になれば、街道はそのまま巨大な軍用通信路へと変わるのだ。
さらに、これまで地理的要因から『道の駅』の対象外となっていた内陸部の深い山々の要所にまで、「通信機能付きの灯台」を設置できたならどうなるか。
軍事的な命令伝達はもちろん、商人の価格情報の共有すらも秒単位で行えるようになるのだ。情報を制する者がすべてを制する。
帝国は、誰よりも人権と平和を守る国なのだ。――少なくとも、民衆の共通認識の上では、そうなっている。
つまり、『旅人の安全のための常夜灯』という極めて人道的な名目で建てられた灯台により、ただの長閑な休憩所だった場所が、いつの間にか全土を監視する『不夜城の通信要塞網』へと変貌を遂げる。すべては合法的かつ、平和的にだ。
「少尉。随分と楽しそうですね。やる気があるようで助かりますよ」
中尉は、俺の口から上がるはずの悲鳴を、パズルの最後の一片を埋めるように待ち構える顔をしていた。
「中尉。俺は、快適で安全な隠居生活のためにやっているだけです」
帝国は豊かになった。国内のほとんどの地域で魔物が討伐され、地方の隅々にまで街道が伸び、農地や工場も爆発的に増えた。周辺国との通商も、かつてないほど盛んだ。
しかし、その急激な経済発展の代償として、国内の物価高騰対策に直面せざるを得なくなっていた。市場に貨幣が溢れかえり、通貨の価値が下がり始めていたのだ。
「少尉。公共工事の連発で市場に現金が溢れれば、さらに物価高騰が加速しますよ」
「中尉。『旅人の安全のための常夜灯』計画は、その莫大な予算規模そのものが、最大の対策となるのです」
国内のインフラ工事によって民間に溢れ出た現金を、他国に設立した「帝国中央銀行」の海外支店を媒介にして、合法的に海外へと逃がす(資本逃避させる)。
手順は極めて合理的だ。工事を受注した軍の実質的な子会社が、周辺国の土地や資源、あるいは外国政府の国債などを買い漁る。
そして、その海外資産を購入する際、現地の売り手には、帝国中央銀行海外支店の口座を強制的に開設させ、そこへ代金を振り込ませる。それだけでいい。
「少尉。周辺国を現金の墓場にするのですか」
「中尉。人道的な海外投資です」
これにより、本来なら国内の市場を流通してインフレを加速させるはずだった大量の金貨が、一瞬にして「他国の銀行口座に眠る外貨」へと姿を変える。国内市場から余剰な金貨が強制的に吸い上げられ、海外の金庫に固定されるため、国内の物価高騰を完璧に抑え込むことが可能になるのだ。
それだけではない。
周辺国からの輸入品に対しては、徹底的な低関税を適用する。これによって軍の子会社だけでなく、民間の貿易商たちが溜め込んでいる金貨をも、仕入れ代金という名目で一斉に国外へ沈めるのだ。
さらに、帝都の民衆に対しては、今や大流行となっている『福引(宝くじ)』のシステムを使い、彼らの手元にある余剰資金をも綺麗に回収する。
「少尉。『福引(宝くじ)』だと、結局市場に金貨が戻ってしまいますよ」
「中尉。賞金を「現金」にしなければ良いのです」
ここで最も重要なのは、賞金を「現金」にしないことだ。そんなことをすれば、市場の現金がさらに回転して物価高騰に拍車がかかる。
だからこそ、景品はあえて「連邦特産の羊毛毛布」や「備蓄用の麦一年分」、あるいは「帝国中央銀行の刻印入り新調銀食器」といった『現物(物資)』にするのだ。
民衆は娯楽として進んで財布を開き、帝国は余剰物資と市場の現金を同時に回収する。実に平和的な政策だ。
「少尉。周辺国からの輸入といえば、連邦で大人気の『英雄・街道少尉』の英雄譚が逆輸入され、帝都の劇場でも大人気ですよ」
「……何ですって!?」
思わず悲鳴のような声が出てしまった。
血の気が引くほどの不吉な予感に襲われ、俺は事の次第をこの目で確認すべく、すぐさま劇場街へと向かった。
劇場の入り口に掲げられていたのは、やたらと大仰な看板だった。
【不沈の白鳥と鋼の街道 〜海賊を震え上がらせた男〜】
客席の隅から舞台を見上げた俺の目に飛び込んできたのは、見知らぬ筋肉質の美形役者が「我が背にある大砲こそが、人権と平和の証明だ!」と熱弁を振るう姿だった。
劇中の『街道少尉』は、海賊に誘拐された村娘を助けるため、剣一本で海賊船に乗り込み、次々と賊たちを叩き伏せていく。しかし、驚くべきことに海賊に死者は一人も出ていないのだ。
それどころか、少尉の崇高な理念に感銘を受け、改心した海賊たちが手を取り合いながら、一緒に街道整備や灯台建設に励み始める。もはや誰も剣など持っておらず、その手に握られているのはスコップだった。
最後は、燃えるような夕日を背に、海賊たちと熱い握手を交わす英雄・街道少尉。その周りを囲む村人たちが、感謝の拍手を送るという、涙なしには見られない大団円が繰り広げられていた。
脚本にはご丁寧に『原案:街道少尉』と書かれていた。当然だが、俺は一行も書いていない。
最悪の結末を予感して足を運んだつもりだったが、現実はさらにその上を行く最悪さだった。俺は吐き気すら覚えながら、足早に劇場を後にした。
「少尉。英雄譚は、概ね事実でしたね」
「……もう、それでいいです」
参謀本部に戻るなり、中尉からかけられた言葉に、俺は疲れ果てた声で応じるしかなかった。
内容の九割九分が嘘であろうとも、その『英雄の神話』によって連邦の治安が安定し、帝国の経済発展が順調に進んでいるというのなら、それもまた冷徹で合理的な判断の結末なのだ。
帰路の馬車、窓の外へ視線を向けると、『帝都環大路馬車鉄道』の線路増設工事が慌ただしく進められているのが見えた。
また一歩「街道」が広がり、世界が静かに書き換わっていく。
読んでくださり、ありがとうございました。




