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覇権国家計画  作者: 納豆
85/85

第85話:士官食堂


帝都参謀本部、士官食堂前。


「こんにちは、少尉さん。今は『街道少尉』の二つ名で呼ばれているらしいわね」


車椅子の車輪が、磨き抜かれた石床を静かに転がる。その見慣れた横顔は、初めて会った頃と何一つ変わっていなかった。


――エルフ。



かつては帝国の元勇者パーティーのメンバー(第7話)であり、直近では、あの規格外の異世界人を誘導する任務(第45話)を完遂したエルフの彼女が、にこやかに話しかけてきた。


彼女は車椅子を巧みに操りながら、士官食堂の重厚な扉の向こうへと入っていく。


以前のここには、車輪が引っかかる程度の小さな段差があったはずだった。だが今は、その段差が滑らかで緩やかな傾斜へと作り替えられている。



「少尉さん。食堂入口の段差、撤去したそうね」


「……ああ。補給用の運搬台車も通しづらかったので」


「ふふっ。本当に、そういう実用的な言い訳が好きよね、少尉さんは。……ねえ、以前にした食事の約束、覚えているかしら? この士官食堂は少し雰囲気に欠けるけれど、私はここで構わないわ」


エルフが身にまとう軍服の肩、そこに縫い付けられた階級章は、俺とまったく同じものだった。



――彼女は、俺と同じ少尉だったのか。


「あなたはあまり興味がないかもしれないけれど、私はあなたと話がしたいの。異世界人同士、元の世界の話をしましょう」



彼女は、この世界に元から存在する在来種のエルフとは異なる、俺と同じ世界からやってきた異世界人の「エルフ」だった。



あの『白い部屋』で、彼女が願った言葉は「エルフになりたい」というものだった。そしてその望みは、正確に、かつ残酷な形で叶えられることとなった。


普通なら生涯消えないような怪我であっても数日で回復し、歳を取ることもない。おとぎ話に登場する神秘的な高位生物に生まれ変わったのだと、彼女自身そう信じていた。



しかし、帝国の研究機関が導き出した結論は、それほど甘いものではなかった。

この帝国には、百年前から定期的に異世界人が迷い込んでいる。


彼女と似たような不老長寿の願いを口にしてこの世界へ降り立った先達は、過去に何人も存在していた。そして、新兵器開発部門に所属する同郷の異世界人技術者が、解剖と観察の果てに出した答えはこうだ。



――異世界人のエルフは、死の直前まで異常なまでの自己修復能力を維持する。しかし、命の総量が限界を超えたその瞬間、せきを切ったように一気に老化が押し寄せる。


帝国の研究者たちは、その現象を「テロメア限界」と呼んでいた。細胞分裂の回数券をすべて使い切った瞬間に、肉体が崩壊を始めるのだ。それはまるで、植物が枯れ果てる直前まで、不自然なほど青々とした葉を茂らせている姿に酷く似ていた。



かつて彼女が所属していた元勇者もまた、「死んでも世界を救いたい」と白い部屋で願い、ドラゴンすら単体で討伐できる絶大な力を手に入れた。


だが、その代償として一振りの剣を振るうごとに膨大な寿命を消費しているとも知らず、彼はただ大陸の魔物を倒し続けた。


そして最後は、寿命を使い切る正確な時期と場所を帝国に都合よく計算され、体よく戦場で誘導されて死んだのだ。(第27話)



あの子供は、この世界をただのゲームだと思い込んだまま命を散らした。ならば、真実を知らぬまま逝けた分、まだ幸せだったのかもしれない。


だが、目の前にいる彼女は違う。


物語のエルフのように瑞々しく美しい少女の姿のまま、ある日突然、肉体の崩壊が始まって死に至るという冷酷な未来を、彼女はすでに知っているのだ。



その絶望的な事実を把握していながら、彼女は今もなお、帝国の軍人として淡々と任務を遂行している。理由も分からず突然、異世界に連れてこられた彼女にとって、この血生臭い帝国は、命を賭して守るべき故郷などではないはずなのに。



食堂内は昼時を過ぎていたこともあり、閑散としていた。俺たちは窓際の微かな陽光が差し込む席に落ち着いた。



「今日の日替わり定食には、果実が付くのね。私、これ好きよ」


「内勤の者は舌が肥えていますからね。果実の評価試験会場としては、ここが最適とも言えます」


階級章の星の数は俺と同じだが、彼女の方が遥か先にその地位に就いた先任者だ。見た目こそ若々しいが、おそらく実年齢も上なのだろう。軍という縦社会の組織において、同階級の先任者に対し礼を失しないことは、社会人の鉄則である。



「果実と言えば……私が、あの規格外の異世界人に『実験農場の果実は農薬まみれだから、食べるのは止めた方が良い』って進言したのよ」(第50話)


「――誠にありがとうございます、エルフ。貴官の、義務に対するその誠意に、改めて敬意を示します」



これは、一切の社交辞令を排した俺の本心だった。もし彼女のその忠告がなければ、あの規格外は、思ったより果実が甘くないだとか、そんな理不尽な理由ひとつで実験農場ごと跡形もなく吹き飛ばしていたかもしれないのだ。


「ふふっ、本当に大げさね、少尉さんは。でも、どういたしまして」


エルフの彼女は小さく笑うと、白い指先で日替わり定食に添えられた果実へと手を伸ばした。



「少尉さんは、どうして軍に残っているの?」


エルフは果実を小さく切り分けながら、何気ない調子で尋ねた。


「安全だからです」


「即答なのね」


「軍の食事は比較的まともです。寝台も清潔だ。冬は暖房用の石炭も優先的に配給される。医療費もかからないし、給料の未払いもありませんから」



俺がそう返すと、エルフは小さく肩を揺らして笑った。


「でも、本当に少尉さんらしいわね」


窓の外では、参謀本部の中庭を補給兵たちが忙しなく行き来している。食器の触れ合う微かな音。厨房から漂う香草の匂い。戦争も、英雄も、国家戦略も、そのすべてから切り離されたような、奇妙に静かな昼だった。


「普通は、兵士の一日に必要な食事量をわざわざ軍規の条文に組み込むような真似はしないわよ」


少し呆れ顔で告げてきた彼女だが、誰に聞かれても俺の回答が変わることはない。


「本官は、どこまでも自分のために行っております。……して、貴官はなぜ軍に?」


俺が問い返すと、彼女は少しだけ考え込み、それから当然のことのように答えた。


「任務だからよ」


彼女は、まるで『今日は雨だから傘を持つ』とでも言うような、あまりにも自然で淡々とした口調だった。


「……怖くはないのですか。ご自身の、その肉体の限界が」


彼女は少しだけ視線を落とし、スープを一口飲んでから静かに答えた。


「少尉さん。軍人なんて、本来はもっと単純な理由で呆気なく死ぬものよ。でも、今はこうして内勤に回されたのだし、前線よりはずっと死にづらくはなったわね」


エルフはそう言うと、残っていた果実を小さく切り分け、静かに口へ運んだ。


窓の外では、補給兵たちが木箱を積み込み、伝令兵が廊下を慌ただしく駆け抜けていく。参謀本部は今日も変わらず動き続けていた。


「……少尉さん。この食堂、前より通りやすくなって好きよ」


彼女は、車椅子の車輪を軽く叩きながら、少しだけ笑った。


「それは、何よりです」


事務的な返答しかできなかった。だが、エルフはなぜか満足そうに小さく頷き、それ以上は何も言わなかった。


食器の触れ合う乾いた音が、閑散とした食堂に小さく響く。緩やかな傾斜の先に広がる血生臭い世界から目を背けるように、俺たちは冷めかけたスープを黙って啜り続けた。


読んでくださり、ありがとうございました。

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