第71話:通商戦争 その六
――帝都参謀本部、特別監察室。
窓の外を仰ぎ見れば、帝都の空は今日もいつも通りの恐ろしいほど穏やかな晴天だった。
街の目抜き通りでは、かつて俺が仕様書を書いた『帝都環大路馬車鉄道』が、規則正しい日常の象徴として今日も優雅に路面を滑っている。
その経済的・治安的な成功の経験を生かし、現在はさらに防衛と物流の利便性を高めるため、最も近郊に位置する主要な『道の駅(PA/SA)』まで一気に馬車鉄道の鉄路を延伸・敷設するという、極めて前向きで華やかな国家計画すらも順調に進められていた。
だが、そんな爽やかで希望に満ちた帝都の未来計画書とは裏腹に、俺の眼前に広がる机の上は、目を覆いたくなるような混沌に満ちあふれていた。
――俺の机を隙間なく埋め尽くしているのは、あの『沼蛮国』の現地から連日途切れることなく速報で送られてくる、膨大な被害と不祥事の報告書の束だ。
運行規模が当初の想定を遥かに超えて爆発的に拡大した結果、現地の処理能力は完全に限界を突破し、あらゆる工区で泥沼の不具合が噴出していた。
『付け焼き刃の訓練しか受けていない現地作業員による、操船ミスが原因の巨大筏沈没・座礁事故』
『物流の要所となった現地の巨大な利権をいち早く握り、私腹を肥やす『沼蛮国』軍の下級将校や現地役人たちによる大規模な汚職行為』
『大混乱に陥った混乱に紛れて、倉庫や船倉から高級な積荷が煙のように消えていく連続紛失事件』
『気が遠くなるような行列から少しでも早く自分の馬車を船に乗せるため、検問所の兵士たちへ裏金が手渡される賄賂の常態化』
『限られた乗船枠の順番を巡り、血気盛んな荒くれ者の商人同士が武器を手にして引き起こす血生臭い利権争い』
『臨時の待機場から周囲の街道へと数キロメートルにわたって蛇のように長々と続く、馬車隊の絶望的な「順番待ち渋滞地獄」』
――さらには、それを出し抜こうと船底の狭い隠し空間へ人間を詰め込む不法な密航や、細い運河のただ中で船が立ち往生することによる、全水路網の完全なる大渋滞。
報告書から、渋滞で倒れた馬の息遣いや、荷を奪われた商人の叫び声まで聞こえてきそうだ。
そんな現地の崩壊しかけたインフラに止めを刺すかのように、『白綿共和国』の山岳少数民族の残党も動いている。
彼らは狭い運河や渋滞で身動きが取れなくなった船を見つけるや否や、獣のような敏捷さで襲いかかり、一撃離脱の戦術で瞬く間に荷物を略奪していくのだ。
「少尉。これも仕様書どおりですか」
中尉は、相変わらず感情の動きを感じさせない冷徹な笑みを浮かべ、値踏みするような視線を俺に向けてきた。
――嫌な言い方だ、中尉だって今後の展開は、知っているだろうに。
「中尉。『沼蛮国』の歯車は、もう止まらないのです」
麻薬の密輸ルートが潰されようが、現場でどれほど凄惨な汚職や遊撃戦が多発しようが、帝国の本質的な歩みが止まる理由はどこにもない。
むしろ、その混乱を養分にするかのように、帝国参謀本部は次なる、そして最大規模の国家計画を世界に向けて正式に発表した。
――『沼蛮国』の東西を流れる二つの大河を、中央で力技で直結させる超大型運河建設計画。
その計画が発動されると同時に、現地ではすでに大規模な基礎工事の槌音が響き始めていた。提示された工期は、気の遠くなるような「三十年」。
無論、これは帝国だけの事業ではない。表面上は帝国主導による平和維持とインフラ復興の形をとっているが、実際には利権に釣られた『水産国』や『資源国』。
さらには経済的な生き残りを懸けた『白綿共和国』など、周辺国すべてが否応なしに莫大な資源を巻き込まれる巨大な長期共同計画へと発展していた。
工期三十年、関わる国家は複数。この果てしない巨大インフラ事業が動き出したことで、『沼蛮国』の地政学は完全に一変した。
工事現場には国境を越えて膨大な労働者が集まり、さらに彼らの生活を支えるための宿場、食事処、活気あふれる酒場、日用品を売る雑貨屋などが次々と乱立。
それらが網の目のように結合し、泥濘のただ中に、自然発生的な巨大集落がいくつも誕生し始めたのだ。
もはや、毎日数万人が関わり、莫大な金貨が動き続けるこの超巨大な経済システムを、一存で止めることなど誰にも不可能だった。
「少尉。湿地帯の海賊や武装民族は解体しました。『平和維持活動(PKO)』は終了ですか」
「中尉。『沼蛮国』の混乱は続いています」
当の『沼蛮国』中央政府は、この惨状に内心で激しい恐怖を抱いていた。
彼らの本音としては、周辺地域の治安が一定の安定を見せた段階で、速やかに帝国の『平和維持活動(PKO)』の終了を宣言し、自国領内から帝国軍を叩き出して主権を取り戻したかったのだ。
だが、帝国の持ち込んだ利権によってあまりにも膨大な「人」と「金」が集まりすぎたため、現場の情勢は彼らの望む平穏とはほど遠い混沌のるつぼと化している。
しかも最悪なことに、豊かさと安全を手に入れた地元の一般民衆たちは、自国の無能な政府よりも、圧倒的な富をくれる帝国軍を「人道的な英雄」として熱狂的に歓迎してしまっていた。
周辺諸国に対して『我が中央政府こそが、この国を統治する唯一無二の正統な支配者である』という政治的免罪符を手に入れるため、自ら進んで帝国の『平和維持活動(PKO)』を受け入れた、沼蛮国政府。
その自らが選んだ正統性の証明という名の首輪に縛られているがゆえに、彼らは目の前で自国領が帝国の経済圏へと完全に飲み込まれていくのを、ただ指を咥えて見ていることしかできなかった。
追い出すための大義名分すら、すでに帝国にすべて奪われていたのだ。おそらく、会議室の地図の上で、官僚の指が小刻みに震えているだろう。
「少尉。これらの問題をどう解決するのですか」
中尉は、隠していた宝物を見つけ出したかのような事務的な微笑をしている。
「中尉。何も問題はありません」
――答えは単純だ。帝国軍が全てを管理する。
『――多発する航行事故、破壊活動の危険性、および流通の不透明性を是正し、航行の安全管理を徹底するため、本日より全工区および大河において、すべての馬車の荷物と身元の調査を開始する』
そもそも、『沼蛮国』に敷設された運河(水路)も、コンクリートの桟橋も、無料の巨大な渡し船も、そのすべては帝国の『平和維持活動(PKO)』の一環なのだ。
帝国軍は、人道的に安全管理のため。破壊活動抑止のため。汚職根絶のため。誰も反論できない正義を掲げ、帝国はすべての流通を公式に「止めて調べる」だけだ。
「少尉。これでは臨検や検閲ではないのですか」
「中尉。『平和維持活動(PKO)』です」
これにより、参謀本部は、『沼蛮国』湿地帯の「物資(経済)」、「手紙(情報)」、そして「人間の移動」全ての情報を手に入れるシステムを手に入れた。
超大型運河建設計画の工期は、三十年。
それはすなわち、帝国は大陸南部の経済と情報のすべてを「少なくとも三十年間にわたり合法的に監視する」ことを意味していた。
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