第70話:通商戦争 その五
『鉄蹄の水脈』作戦が発動してから数か月。底なしの湿地帯と呼ばれた『沼蛮国』の景色は、帝国の近代工学と圧倒的な物量によって、文字通り原型を留めないほどに塗り替えられつつあった。
だが、真の「戦争」とは、血を流す鉄と火の打ち合いだけを指すのではない。
――『覇権国家計画』。
帝国という存在を他国が逆立ちしても侵略不可能な超大国へと押し上げ、同時に諸外国へ向けて戦略物資である食料と高度な技術を輸出し続ける。
そうして世界各国を「複合的な相互依存関係」の鎖で縛り上げるのだ。その結果、国家が戦争にかかる莫大な費用を物理的にもシステム的にも支払えない世界を強制的に作り出し、将来必ず起こるであろう破滅的な『世界大戦』を未然に抑止する。
今回の作戦により『沼蛮国』は帝国への「経済とインフラによる完全な依存」へと結果的に追い込まれることになるが、これも決して偶然の産物ではない。
帝国が百年以上も前から異世界人と密接な関わりを持ち、現在もなお軍主導で冷徹に継続されている、壮大なる『覇権国家計画』の冷酷な一段階でしかないのだ。
『鉄蹄の水脈』作戦前線司令部――通称「バケツの巣」。
湿った土と熱い蒸気、それに重苦しい鉄の匂いが四方に立ち込め、その空間はどこか常軌を逸した不気味な熱気に包まれていた。
終着点すら知れぬ、網の目のごとくどこまでも広がる暗渠。
帝国が提示した「危険手当」という名の一攫千金の高給に釣られた作業員たちは、今日も終わりなき泥との死闘を繰り広げ、凄まじい速度で運河を切り拓いている。
「少尉。運河の終わりが見えない中、さらに計画を進めるのですか」
前線から上がってきた過酷な進捗書類をめくりながら、中尉がいつもの事務的な笑顔のまま問いかけてきた。
「中尉。これは、帝国の『平和維持活動(PKO)』です」
『沼蛮国』中央の湿地帯へ運河(水路)の開鑿が進む一方で、参謀本部は次なる一手を、『沼蛮国』の東西を流れる二つの大河へと打ち込んだ。
東西の大河。それは古くから、周辺諸国を結ぶ極めて重要な流通の生命線であった。帝国はその河川の要所に、突貫で数百台の馬車を同時に収容できる広大な待機場を建設。
そして、そこへ見たこともないような巨躯を誇る、数十台の馬車をそのまま腹の中に格納できる鉄の巨大渡し船――「フェリー(Ro-Ro船)」を次々と配備する計画を進めている。
「少尉。海軍司令部の造船所なら巨大な輸送船も作れるでしょうが、『沼蛮国』では無理ですよ」
「中尉。運用に合わせて最適化するだけです」
そんな近代的な巨大鉄鋼船など、現在の帝国の技術で早急に作れるわけもなかった。
仕様書に踊る華やかな文言とは違い、現場に配備される実物は、頑強な大木をこれでもかと強引に組み上げた「巨大な木製の筏」に過ぎない。一度に運べるのも、せいぜい馬車数台といったところだろう。
だが、今の辺境においては、その泥臭い筏の折り返し運転こそが、あらゆる勢力を根底から覆す最凶の武器となるのだ。
――「これからは、川を渡るのに命を懸ける必要はありません。我が帝国の安全な渡し船が、皆様の財産を目的地まで確実にお運びいたします」
その触れ込みは、渡りの絵師が描く色鮮やかな絵や、各地を巡る語り部たちの張りのある声に乗り、周辺国の商人たちの間へ燎原の火のごとく広がっていった。
この圧倒的な物流の回復と治安の向上に、これまで『沼蛮国』の劣悪な環境に喘いでいた一般民衆や、連日の不穏な遊撃戦に怯え続けていた周辺国の商人たちは、文字通り狂喜乱舞した。
「これで命の危険を気にせず、安心して商売ができる!」
「帝国軍。彼らは戦場で勇猛果敢なだけでなく、弱者を救う真に人道的な英雄だ!」
そして、作戦開始から二か月後。
『沼蛮国』の東西を流れる二つの大河の沿岸には、事前の計画通り、数十台の馬車が秩序正しく待機可能な巨大な馬車駐車場が整備されていた。
頑強な鋼管桟橋の先には、川の流れに耐えうるよう巨木を幾重にも組み合わせた、馬車五台が並んでもなお余裕があるほどの「巨大な木製の筏」が、厳重な帝国兵の監視のもとで静かに停泊している。
帝国政府は、この規格外の渡し船の運行を「周辺地域の治安維持協力期間」と称し、通行料を『完全無料』、あるいは維持費にも満たないような極端な『格安』で開始したのである。
周辺国の商人や命懸けの馬車隊は、このあまりの便利さと圧倒的な安全性、そして何より「無料」に誘われ、全員がこれまでの古い交易ルートを即座に見捨てて帝国の渡し船へと殺到した。
「少尉。湿地帯で細々と生計を立てていた手漕ぎの渡し船業者は、今後どうなりますか」
駐車場を埋め尽くす膨大な馬車の数を見つめながら、中尉がふと、その冷ややかな視線を俺に向けて問いかけてきた。
「中尉。それは『沼蛮国』政府が解決するべき問題です」
商人が一人残らず帝国の巨大な筏へと乗り換えた結果、これまで『沼蛮国』の地元で細々と生計を立てていた手漕ぎの渡し船業者や、川の関所を不法に占拠して通行料という名の小銭を稼いでいた武装部族の残党は、帝国軍と戦火を交えることもなく、わずか数ヶ月の間に完全に顧客を奪われた。
彼らは一本の矢で射抜かれることもなく、ただ経済的な完全飢餓によって、静かに、しかし確実に全滅し、廃業へと追い込まれていったのである。
だが、どれほど流通が劇的に改善され、組織的な密輸網が干からびようとも、根深い辺境の病巣がすべて消え去るわけではない。
『白綿共和国』の山岳少数民族による、凶暴な略奪行為だけは、何事もなかったかのように止まることなく続いていた。先日首を差し出してきた北部民族の支配者層とは違い、明確な「派閥」も「指導者」も最初から存在しないのだ。
彼らには、条約も、政治的妥協も、経済的な採算の説得も一切通用しない。一度の襲撃に失敗し、帝国軍の火力によって手痛い損害を受けて人数が減れば、生き残った者同士が他の集落に合流し、瞬時に再び新たな武装集団を結成して、略奪を繰り返す。
「少尉。『白綿共和国』の山岳少数民族は、あなたでも仕様に落とせないようですね」
「中尉。今後『流通は安定する』商人がそう認識すれば問題はありません」
既に、山岳少数民族が敵に回したのは帝国軍だけではなかった。
長年の略奪から解放されつつある『沼蛮国』の地元民衆。新たな綿花ルートに懸ける『水産国』と『資源国』。
そして何より、かつては彼らと手を組んで麻薬を密売していたはずの『白綿共和国』の北部民族の幹部たちさえも、今や「湿地帯の安全な交易ルートの確立」こそが自らの採算に合う絶対の正義であると確信していた。
それを邪魔する山岳少数民族は、速やかに排除すべき共通の敵でしかなかったのだ。
誰もが自らの利益のために合理的な判断を下した結果、山岳少数民族は、周囲を取り囲む全ての勢力との全面戦争へと突入させられた。
帝国の『平和維持活動(PKO)』により生まれた新たな経済により、彼らは辺境の泥の中に埋もれるようにして急速に衰退していったのである。
――帝都参謀本部、特別監察室。
「バケツの巣」での教導補佐任務を終え、三か月の月日が経過していた。
机の上に山積みにされた、『沼蛮国』現地から送られてくる膨大な報告書の束を眺める。
山岳少数民族が掃討され、運行規模が爆発的に拡大していくのは仕様書通りだったが、それに伴って現場から上がってくる混沌の報告は、すでに現地の処理限界を遥かに突破していた。
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