第69話:通商戦争 その四
――帝都参謀本部、特別監察室。
窓の外には、まるで南部の泥沼にこれから訪れる凄惨な嵐など微塵も感じさせないほど、恐ろしいまでに穏やかな青空がどこまでも晴れ渡っていた。
その静寂を破るように、国境の前線から速報が届けられた。
『白綿共和国』の北部に駐屯する帝国軍宿営地に、これまで帝国の治安を内側から脅かし、麻薬密輸を裏で執拗に主導していたとされる北部民族の指導者の遺体が、計画に加担していた残党の一団とともに引き渡されたのだ。
驚くべきことに、その指導者とされている男の首を刎ね、縄をかけて帝国軍へと差し出してきた黒幕は、他でもない。その男と同じ北部最大派閥に属している「幹部たち」自身であった。
「少尉。“指導者とされている男”は死亡したようですね」
中尉は手元の書類から視線を上げると、損得勘定を終えた後の、事務的な笑みを浮かべて俺に話しかけてきた。
「中尉。過程はどうであれ、麻薬密輸が止まれば問題はありません」
『白綿共和国』の北部民族の幹部たちは、正義や悪、あるいは帝国への復讐や崇高な愛国心という感情で動いたわけではない。
自分たちの主要産業を救う「新たな巨大流通ルート」が目の前に提示されたので、彼らは忠誠ではなく、ただ合理的に「採算」のために刃を振るっただけであろう。
それに帝国と参謀本部の目的は、麻薬密輸撲滅だけではない、『鉄蹄の水脈』作戦は発動したのだ、もはや麻薬密輸など、この作戦を止める理由にはならない。
『鉄蹄の水脈』作戦前線司令部――通称「バケツの巣」。
ここは、泥と蒸気、そして鉄の匂いが混ざり合い、その空間に異様な空気を醸し出していた。
北部民族の手によって麻薬密輸組織の首謀者たちが差し出され、組織が実質的な壊滅を遂げてから二週間後。
俺は、『沼蛮国』の現地へと足を踏み入れていた。参謀本部が「この地域の小型魔物の脅威は排除された」と判断した結果、俺は教導補佐の肩書でここに居る。
作業員たちの胃袋を支える巨大な給仕所へと視線を向ける。そこでは、泥にまみれた労働者たちに混ざって、小さな手が、大人用の鍋を必死に支えている。現地の幼い子供たちがせわしなく働いていた。
帝国において、このような過酷な工事現場や肉体労働の場に子供を立ち入らせることは、厳格に禁じられている。
たとえ生活に困窮した子供本人がどれほど強く就労を望んだとしても、軍や政府は安全を絶対に厳守できない仕事を与えることは無い。
逆を言えば、その帝国軍の憲兵たちが、現地の子供がここで働くのを黙認しているという事実そのものが、この「バケツの巣」の周辺領域における安全が、完璧に担保されているという何よりの証明でもあった。
もちろん、『沼蛮国』の全域から魔物が完全に消え去ったわけではない。単に、俺がいるこの頑強な高床式司令部の周囲には、もう魔物が湧き出ないというだけの話だった。
この『沼蛮国』の東西には、それぞれ大きな河川が流れている。これらは古くから周辺国を結ぶ重要な通商水路として機能してきたが、その一方で中央に広がる広大な湿地帯は完全な治安の空白地となっていた。
その大泥濘の中に、人工的な水路(運河)を網の目のように縦横無尽に張り巡らせることで、絶対的な流通ルートと完璧な警備体制を同時に確立させることこそが、『鉄蹄の水脈』作戦の真の狙いの一つなのだ。
参謀本部が叩き出した試算では、無限に湧き出る人員(人力)と、量産が始まった蒸気ポンプを休むことなく稼働させ、昼夜問わず掘り進める突撃工法を維持した場合――「幅三メートル、深さ二メートル」の直線運河は、わずか三か月の期間で「十キロメートル」の長さを完全に切り拓くことができるという。
「少尉。十キロの運河を三か月で作れると思っているのですか」
「中尉。人員が無限である以上、理論上は可能です」
それは、俺が弾き出した近代土木工学の理論上の計算と、完全に一致していた。……あくまで、計算上での話ではあるが。
当然ながら、幅わずか三メートルの狭い水路では、荷を積んだ大船同士が水上で反転することも、すれ違うことも物理的に不可能だ。
しかし、この規格化された狭さこそがシステムの本質だった。
運河の開鑿と同時に構築している「両脇の頑強な堤防(馬道)」を最大限に活かし、陸上から軍馬にロープで船を引っ張らせる『曳船方式』を採用する。
これによって、喫水の深い大型の荷船であっても、座礁を完璧に排し、一定かつ安全な運行速度で確実に目的地へと引っ張り回すことが可能になるのだ。
これは、「一方通行の細い水路を、同時に複数平行して切り拓いていく」という、極めて合理的かつ圧倒的な兵站戦略だった。
この運河網を行き交うことになる船は、従来の造船職人の高度な技を必要とする優美な流線型の木造船ではない。不具合が発生しても現地で即座に対応・修理が可能な、ただの鉄の「箱型平底船」である。
この「箱型平底船」の運用試験が、俺の任務である。
もちろん、前方が完全な垂直の壁のままでは、進むときに水を前方へ押し出す形になってしまい、凄まじい水圧の抵抗が発生する。そうなれば、いくら頑強な軍馬が陸上から力強く引っ張ったところで、船を動かすことすら叶わない。
だが、底面に用いる平らな鋼板を、前方の端だけ「そり」のように斜め上へと曲げて溶接する。美しく丸める必要などは一切ない。ただ直線的に折る、それだけだ。
「少尉。これは船ではありませんね。水に浮かぶ、ただの箱です」
中尉は、試験用の鉄船を眺めながら、心底不思議そうに首を傾げた。
「中尉。美術品ではなく輸送箱です」
これだけの工夫で、船が前進したときに水が船底の下へと自然に滑り込んで逃げてくれるため、水の抵抗は劇的に減少する。馬たちも、驚くほど軽い力で大型の荷船を引っ張ることができるようになるのだ。
船尾の後方も同じように少し斜めに跳ね上げておくことで、今度は船底を潜った水が綺麗に後ろへと抜けていき、船はさらに安定して真っ直ぐ進むようになる。
この設計は、すべての部品が「真っ直ぐな鋼板」だけで構成されている。現場に溢れる無限の労働者たちが、定規で線を引いて切り出し、直線的に溶接するだけで、未経験者であっても無限の量産が可能になるのだ。
もっとも、現場で溶接を行うための簡易炉を建造するところから始めなければならないため、当面の間は「箱型平底船」の完成品を持ち込むことになるだろうが、その兵站の時間差を考慮しても、この水路システムの効率性は圧倒的だった。
さらに、運河を掘り進める過程で発生する、天文学的な量の「泥土(泥炭)」の処理システムにも抜かりはなかった。
俺の視線の先では、帝国軍工兵部隊が誇る高熱効率暖房器――通称「ロケットストーブ」の燃焼技術を転用した、巨大な『泥土乾燥ライン』が轟音を立てて稼働していた。
ストーブの排熱口から、太い鋼管を地面に水平に、文字通り長々と横に這わせて繋ぐ。この地表を這う長い鋼管そのものが、いわゆる「床暖房」の役割を果たし、上部の鉄床を強制的に強烈な高熱へと熱する構造になっている。
給仕所で温かい食事を貪り、瞬時に体力を補給した無限の労働者たちが、スコップを使って、その熱くなった鋼鉄床の上に湿った泥土を厚さ数センチ程度に薄く平らに広げていく。
そして彼らが泥を何度もひっくり返し、泥土を絶えず撹拌することで、常に新しく濡れた泥を熱床に触れさせ続ける。
この強烈な人海加熱作業により、ただ天日に干すだけの場合に比べ、泥の乾燥スピードは数倍にまで跳ね上がるのだ。
驚くべきは、ここからである。掘り出したこの泥土(泥炭)は、水分を完璧に乾燥させると、なんと石炭の代わりとなる優秀な「個体燃料」へと変貌するのだ。
つまり、このラインで乾かした泥炭を、そのまま次の燃料として目の前のロケットストーブに次々と投入できるようになる。――「泥を乾かすために、手に入った泥を燃やす」。外部からの燃料補給を必要としない、文字通りの自己完結型の無限燃料システムが、この大泥濘の上に完成していた。
「少尉。泥を乾かすために泥を燃やすのですか」
「中尉。事故率は規定値以下です」
横引きの煙突(鋼管)をあまりにも長く繋ぎすぎたせいで、現場では排気効率が著しく低下。
不完全燃焼によって発生した目に見えない煙(一酸化炭素)を作業場へと逆流させ、これまでに複数名の一酸化炭素中毒による悲惨な死亡事故を発生させていたが……それも、算出される「事故率」で見れば、参謀本部の定める許容規定値以下に綺麗に収まっていた。
だが、俺たちが前線司令部でこの冷徹なまでの物流・乾燥システムを順調に稼働させる一方で、前線では沼地の海賊や好戦的な武装部族、そして『白綿共和国』の山岳少数民族の略奪行為は、常に発生していた。
目先の富に目が眩んだ彼らは「工事が遅れれば遅れるほど、この場に物資(獲物)が長く留まり続ける」という独自の略奪戦略で、同胞が何人吹き飛ぼうが構わずに遊撃戦を激化させていく。
彼らは、帝国軍の強さを知ると、『沼蛮国』に来たばかりの『水産国』と『資源国』(第68話)に狙いを変え襲いだした。
「少尉。彼らは工事が完成すれば、より豊かになれるのですよね」
「中尉。理論上はそうです」
「では、なぜ襲撃を続けるのでしょう」
「……仕様に落とせません」
帝国の『平和維持活動(PKO)』の裏側では、誰もがただ、自らの利益のために最も合理的な判断を下し、冷徹に行動しているに過ぎなかった。
読んでくださり、ありがとうございました。




