第68話:通商戦争 その三
湿地帯の空気は、血と泥と蒸気の匂いが混ざった、戦場とも工事現場ともつかない異様なものだった。
帝国軍建設工兵大隊の手によって、底なしと言われた『沼蛮国』の軟弱な地盤に、鋼杭が一本また一本と力任せに打ち込まれていく。
泥濘を強引に貫く高床式の桟橋道路が突貫で敷設されると、それを足場にした魔物討伐隊が動き出した。
快速銃騎兵の新型複合式魔導短機関銃で小型魔物を一掃し、後続部隊が対物魔導長銃で生き残りを確実に仕留める。彼らは湿地帯の奥から這い出てくる凶暴な小型魔物を次々と掃討していく。
そして、その安全圏が確保されたすぐ後方では、無数の土木作業員たちが、網の目のように分岐する運河を黙々と掘り進めていた。
足場が崩落し、生き埋め事故が頻発する「魔の地域」であっても、泥まみれのシャベルが止まることは一瞬たりともない。
環境が悪すぎて初期の労働者が逃げ出すか、あるいは魔物の牙によって全滅する可能性すらあらかじめ織り込み済みだった。その対策として、参謀本部が提示したのは実に単純な飴――「危険手当」という名の、破格の給金だった。
帝都参謀本部、特別監察室。
窓の外の晴天とは対照的に、既知の結末をなぞっただけの、検証済み印のような事務的な笑みの中尉が、机の上に一枚の書類を置いた。
そこに記されているのは、現場から送られてきた作業員の志願者数推移の表だった。
「少尉。あなたが提案した『高い報酬で人員を確保』する方法は順調のようですね」
「中尉。……危険手当です」
一攫千金を夢見る荒くれ者や、明日を生きる糧のない難民たちが、その大金に釣られて次々と現場へと志願し、殺到した。どれほど死者が出ようとも、その日のうちに新しい労働者が穴を埋める。
それは、戦火から遠く離れた『沼蛮国』の地方の村人たちにとっても同じだった。彼らにとって、帝国から支払われる眩い金貨は、周辺の貧しい貧しい地域に比べれば大金だったからだ。
「一ヶ月働けば、家族を飢えさせずに済む」その一言が、どんな危険よりも強い動機になっていた。
命の値段を金で釣り上げることで、どれだけ人が死んでも補充が無限に効く不滅のシステムが、泥沼の上に完成しつつあった。
――参謀本部は、実に合理的だ。
各地の『道の駅(PA/SA)』の掲示板には、新しい版画新聞が誇らしげに貼り出されていた。
そこに描かれていたのは、泥にまみれた過酷な掘削現場ではなく、正義の帝国兵が、『沼蛮国』の残虐な武装民族の集落から、涙を流す無垢な子供を人道的に救い出すという、劇的で勇猛な英雄たちの姿だった。
「少尉。『沼蛮国』の政府は健在ですよ」
「中尉。俺らは合理的な国家運営をしているだけです」
そもそも、世間が野蛮な「無政府状態」と呼んで蔑む『沼蛮国』の実態は、国家機能の完全な崩壊とは程遠い。
それは「部分的失敗国家」や「二重権力状態」と定義するのが正しい。中央政府は今なお健在であり、彼らはただ、割に合わない地方の治安維持を合理的に「放棄」しているだけなのだ。
本質は、政府の主権が「首都圏とその周辺」という限定的な平地部にのみ特化している点にある。事実、彼らの経済を支える工業都市や広大な農地は、底なしの湿地帯から遠く離れた、強固な平地の上に平然と築かれていた。
慢性的な人員不足に悩む軍や警察を動員して湿地帯を平定したところで、そこから得られる資源や税収は皆無に等しい。
ならば、地方の反政府勢力や独自の武装部族を乱立させ、互いに利権を争わせて共喰いさせる方が、中央政府の安全を保障する上でよほど都合が良い。
混乱の空白地帯を残すことで、中央政府への脅威をそらすためにあえて混乱させておく。
『沼蛮国』政府にとっては「中央の財布に実害がない限り、好きにさせておくのが最善」――それが『沼蛮国』政府の冷徹な統治方針だった。
そして、他ならぬ当の『沼蛮国』中央政府自身が、帝国の『平和維持活動(PKO)』を受け入れている。沼蛮国政府にとってみれば、帝国軍が治安維持やインフラ復旧、人道支援を肩代わりしてくれるため政府の負担することなく、地方を勝手に安定させられるという本音がある。
それと同時に、帝国の派遣軍を受け入れる公的な窓口となることで、周辺国に対して『我が中央政府こそが、この国を統治する唯一無二の正統な支配者である』と強烈に印象づける政治的免罪符を手に入れられるからだ。
襲撃の急先鋒となったのは、沼地の海賊や好戦的な武装部族、そして『白綿共和国』の山岳少数民族たちだ。
底なしの湿地帯という圧倒的な地の利を活かした彼らは、工事現場の倉庫に蓄えられた膨大な兵站食料、そして何より近代の利器である最新鋭の「蒸気ポンプ」そのものの略奪を目的に、霧の向こうから神出鬼没の不気味な奇襲を連日のように仕掛けてきた。
警備の隙を突き、山岳民族の手によって数台の蒸気ポンプが強奪された。この事態を受け、現地軍は即座に国境周辺の境界警戒を強化した。だが、夜陰に乗じて、あざ笑うかのように資材置き場からさらに追加のポンプを盗み出していったのである。
数日後、帝都参謀本部、特別監察室。
「少尉。『白綿共和国』北部帝国軍宿営地からの報告によると、山岳少数民族集落で爆発が確認されまた」
中尉は、熱を帯びた観測者の瞳で俺を見ている。
「中尉。彼らは蒸気ポンプの取り扱い説明書までは盗まなかったのでしょう」
――資材置き場の蒸気ポンプは、圧力を高めれば一瞬で大爆発を起こすようになっている。危険なので何も知らない現場作業員が、使わないよう最低限の警備をしていただけだ。
「少尉。参謀本部は『水産国』と『資源国』の協力を受け入れる方針で調整中です」
「中尉。彼らは、国家ではなく個人の利益のために行っているだけです」
『水産国』と『資源国』。(第37話)
帝都の南方に位置するこの二つの小国は、いずれも帝国から生活必需品である食料を大量に輸入しているものの、決済は慢性的に遅延し、債務が積み上がっていた。しかし帝国が行った強制的な「経済発展への協力」により現在の経済が安定している。
そんな二国にとって、今回の「沼蛮国泥炭層克服・大運河開鑿事業」は千載一遇の好機だった。
『水産国』からは商隊の護衛を専門とする実戦慣れした傭兵団が、『資源国』からは重装甲を誇る精鋭騎士団が、それぞれ国境地帯の陣地へと続々と合流を果たしている。
『沼蛮国』の湿地帯を安全に通過できる物流ルートが完成すれば、隣国である『白綿共和国』が産出する綿花を、これまでにないほど安価かつ大量に自国へと直接引き込むことが可能になるからだ。
『白綿共和国』の北部民族支配者層が、帝国を内側から骨抜きにするために仕掛けた裏の麻薬密輸は、破綻寸前へと追い詰められている。
帝国へ直接物が売れずとも、新設される安全な運河と馬道を経由すれば、北側民族の生命線である工業製品や豊富な鉱物資源を『水産国』や『資源国』へと直接流し込む「新たな巨大流通ルート」が合法的に開けるのだ。
『白綿共和国』の北部民族支配者層は、今まさに、巨大な選択の天秤の前で迷い、揺れ動いているだろう。
――そして、二週間後。
『白綿共和国』の北部に駐屯する帝国軍宿営地の正門前に、一つの巨大な木箱と、縄で芋蔓式に縛り上げられた一団が突き出された。
木箱の中に収められていたのは、これまで麻薬密輸を裏で主導していた北部民族の指導者とされる男の、冷たくなった首。そして引き渡されたのは、その計画に加担していた残党の協力者たちだった。
――誰もが合理的に判断し、行動している。
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