第67話:通商戦争 その二
『――我が帝国の南部国境、および隣接する未確定領域における治安の悪化は、周辺諸国の市民生活をも脅かす国際的危機である。よって帝国は、人道秩序の回復と『沼蛮国』を含む地域社会の平穏を保護するため、限定的な強制力を有する「平和維持活動(PKO)」の部隊派遣を決定した』
帝国各地を網の目のように結ぶ街道沿い――その要所に設置された『道の駅(PA/SA)』の掲示板には、刷り上がったばかりのインクの匂いも新しい版画新聞が一斉に貼り出されていた。
紙面に躍る大見出しは、民衆の愛国心を刺激するに十分な言葉だった。
「地域全体の通商安全保障」。
渡りの絵師たちが、精緻かつ扇情的に描き出したその木版画には、これまで謎に包まれていた「禁忌の地」こと『沼蛮国』の惨状が、これでもかと克明に活写されていた。
――周辺国の無辜なる商船が、血に飢えた武装部族に次々と襲撃されている凄惨な光景。民間交易の航路における保険料が異常高騰し、物流が麻痺しかけているという経済的危機。
――網の目のように入り組んだ湿地帯を経由し、不穏な武器の密輸が横行している不気味な裏取引。
――買収の誘惑に負け、犯罪組織を黙認して甘い汁を吸う周辺国の腐敗しきった国境警備隊の姿。
そして何より、冷酷非道な海賊たちの手によって、無垢な子供たちが誘拐され、闇へと連れ去られていく衝撃的な絵図。
帝都の広場や街道の休憩所で、その新聞を食い入るように読み進める民衆は、絵師たちの狙い通りに口々に激しい憤りや被害者への同情を漏らし始めていた。
「あの『沼蛮国』とかいう場所は、実質的な無政府状態じゃないか。あんな泥沼じゃ、帝国のような人道的な市民生活なんて営めるはずがない」
「子供たちが無残に誘拐されているというのに、『沼蛮国』の軍隊は何一つ仕事をしていないのか! 恥を知れ!」
「やはり我が帝国軍が直々に赴くのが一番だ。我らが帝国兵は、戦場で勇猛果敢なだけでなく、弱者を救う人道的な英雄なのだからな」
特別監察室の窓から見える広場の掲示板を見ながら、中尉は純粋に楽しみに尋ねてきた。
「少尉。渡りの絵師たちは、禁忌の地に詳しいですね」
「中尉。彼らは優秀なのでしょう」
正義の御旗を掲げた帝国の世論は、一瞬にして兵力派遣を支持する方向へと塗り替えられていった。
そしてその熱狂と「沼蛮国=諸悪の根源」という共通認識は、国境を行き交う商人や、各地を巡る渡りの語り部たちの手によって、帝国内に留まらず周辺諸国へと電光石火の速さで伝播していくのだった。
中尉は、机に広げられた南部辺境の広大な地図を細い指先でなぞりながら、先ほどの会話が嘘だったかのように、ただ「正解」を冷たく要求するだけの能面のような事務的表情に戻っていた。
「少尉。予算は問題ありませんが、人員が足りませんよ。コンクリート街道を敷くとなれば、大規模改修工事が必要です」
「中尉。人員は問題ありません」
俺は、地図の国境線を越えた先にある『白綿共和国』の北部領域を見据えた。
南部臨時政府による綿花一極集中の再建計画のせいで、北部の工業街が完全に崩壊し、街には路頭に迷った失業者が溢れている。彼らを帝国の国境直轄事業の作業員として、破格の条件で一斉に囲い込む。
現場への距離を考えても、隣国から労働力を動員することに不都合はない。
帝国を骨抜きにするために麻薬に手を染めていた北部民族に対し、合法的に外貨を稼ぐ機会を与えてやる。腹を満たされた労働者は、もはや命懸けの密輸に加担しなくなるだろう。
結果が伴わない戦略は単なる暴挙だが、帝国が彼らの雇用を支えてやるというこの形なら、彼らにとってもこれ以上ないほど合理的だ。
「中尉。コンクリート街道は、非効率です。湿地帯に運河(水路)を掘削して船による大量輸送ルートを強引に切り開きます」
まず、本格的な掘削を開始する前に、予定水路の両脇へ厚みのある強固な鋼板を、垂直かつ深く地中へと打ち込ませる。これにより、周囲に広がる軟弱な泥炭層が自重で崩れ、水路へと流れ込んでくるのを完全に遮断するのだ。
この際、両脇の土留め鋼材が泥の凄まじい圧力(側圧)に負け、内側へと倒れ込んで水路を狭めてしまわないよう、頑強な鋼杭と頑丈なロープを用いて、あらかじめ外側の地盤へと力任せに引っ張り固定しておく。
基礎の固定が終われば、あとは文字通りの力業だ。鋼材の内側に取り残された泥土を、ひたすらシャベルを使って手掘りさせていく。
掘り返された膨大な泥は、「もっこ」やバケツへと詰められ、国境を越えて集まった無限とも言える人員の手から手へと、途切れることのない手渡し運搬によって次々と外へと運び出されていく。
同時に、足元から絶え間なく湧き出る地下水や泥水に対しては、帝国でようやく量産化が開始されたばかりの蒸気ポンプを惜しみなく各所に配置し、轟音とともに昼夜問わず強制的に吸い出し続けさせる。
そうして掘り抜いた極限の空間に、最後の仕上げとして水路の底面と側面へ一斉にコンクリートを流し込む。鋼材とコンクリートを一体化させ、完全に硬化させることで、泥の圧力に永久に耐えうる頑強な三面張りの近代水路が完成するのだ。
それだけではない。運河から引き揚げられた底なしの泥は、一時的に広大な乾燥場へと集められ、容赦のない天日によって水分を絞り出される。そこへ、街の整備で出たコンクリートの破片や、破砕した砂利を絶妙な比率で調合するのだ。
軟弱だった泥炭は、これら骨材を混ぜて徹底的に転圧(踏み固め)されることで、驚くべき強度を持つ即席の硬質土へと生まれ変わる。
泥を掘り、横に積み、固める――。泥濘そのものが、帝国の国境線へと変わっていく。
この極めて単純な反復作業の結果として、泥濘のただ中に「中央を巡邏船が通る運河と、その両脇を馬車や兵員が迅速に展開できる堅牢な堤防路(馬道)」が同時にその姿を現す。
運河を掘れば掘るほど、陸上の防衛線たる堤防は高く、強固になっていく。
『白綿共和国』の失業者たちは、自分たちが外貨を得るために流した汗と泥が、そのまま祖国(北部)の密輸ルートを永久に遮断する『巨大な壁』へと形を変えていく皮肉など、知る由もないだろう。
「沼蛮国泥炭層克服・大運河開鑿事業」
――作戦名:『鉄蹄の水脈』
仕様書を書き上げた後、中尉から打診されて適当に口にした作戦名が、そのまま軍令として登録されてしまった。
帝都参謀本部、特別監察室。
南部での大開鑿が始まってから二か月。本来なら技術教導補佐の肩書きで現地へ派遣されるべき俺が、未だにこの特別監察室に居座っているのには、極めてまっとうな理由があった。
――そこが、危険だからだ。
組織化された海賊や武装部族なら、帝国軍の圧倒的な火力で対処が可能である。しかし、あの泥濘の奥から這い出てくる小型魔物の群れは、軍の警戒線をかいくぐって容赦なく牙を剥く。『沼蛮国』という禁忌の地には、未だ人類の領域ではない濃密な魔物の生態系が残されているのだ。
軍の本格的な掃討部隊が辺境全体の安全化を完了するまで、しばらくの時間を要するだろう。
「少尉。『鉄蹄の水脈』では、生き埋めによる死亡事故や魔物による被害が続いています」
中尉は、溜息をつき、不具合を処理するように事務的な笑みを浮かべた。
「中尉。事故率が規定値以下なら問題はありません」
参謀本部は、俺が提出した仕様書の「物量と速度」に全振りした最も効率的な泥炭地運河開発工程を冷徹に押し進めている。
分母となる総労働者数の規模を人海戦術によって極限まで膨れ上がらせることで、被害者の実数がどれほど多くなろうとも、算出される「事故率」という数字自体は、驚くほど低く安全圏に抑え込むことができる。
――帝国の民衆も『白綿共和国』の北部でも事故率が低い安全な工事だと認識している。
現場の足場が突如として崩落し、悲鳴とともに数人の作業員が泥の底へと呑み込まれたとしても、運河全体の進行が滞らなければ、軍としては「異常なし」と処理する。人間の命を冷徹な数値へと還元する、これ以上ないほどに合理的で、そして非情な判断だった。
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