第66話:通商戦争 その一
帝都参謀本部、特別監察室。
久しぶりに帝都を訪れた長雨は、街の活気をいくらか奪い去ったかのようだった。連日、身動きが取れないほどの混雑を見せていた一大拠点『帝都複合娯楽施設』でさえ、この悪天候には抗えず、客足は目に見えて落ち込んでいる。
開放的な屋外演劇場で行われる予定だった人気の公演が、雨水に濡れる舞台を前にいくつか中止を決定したことも、その寂しさに拍車をかけていた。とはいえ、施設そのものが閉鎖されたわけではない。
雨を避けて屋内の商店街で掘り出し物を探す者や、名物の食事処で舌鼓を打つ観光客など、その足跡が途絶えることはなかった。
この帝都の象徴とも言える『帝都環大路馬車鉄道』は、このような悪天候下であっても決して足を止めない。
濡れた大路を規則正しく巡回するその姿は、雨に煙る帝都において、変わらぬ日常の象徴として人々に安心感を与えていた。
そして、その降り続く雨のように湿っぽく、感情の合理的な動きを感じさせない事務的な笑顔を浮かべた中尉が、一枚の報告書を俺の机の上に静かに置いた。
視線を落とすと、そこには『帝国南部国境警備隊からの密輸麻薬摘発報告』という、不穏な文字が躍っていた。
麻薬――。この帝国において、その二文字が持つ意味は重い。製造や販売はもちろん、単なる所持や使用に至るまで、発覚すれば例外なく死罪を含む極刑が科される最悪の重罪だ。
それゆえに、厳重な検閲を潜り抜けて表の流通ルートから国内へ持ち込むことなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。
今回摘発されたということは、法の目を盗んで帝国の境界を侵犯し、闇から闇へと取引される『密輸』という裏のルートが厳然と存在している証拠に他ならなかった。
「少尉。密輸経路ですが、湿地帯の小水路を利用しているようです」
「……船ですか」
「正確には、底の浅い小型舟艇です。正規の検問所を完全に迂回しています」
届いた国境警備隊からの報告書を読み進めると、事の顛末が記されていた。帝国南部辺境の境界線付近において、狂暴な小型魔物の群れに襲撃されていた素性の知れない商人を警備隊が保護。
その際、行われた荷物検査によって、隠匿されていた麻薬の所持が発覚したのだという。地図に目をやれば、あの南部辺境地域には、帝国の生命線である主要街道すら存在せず、未だに文明の手が入っていない開墾不能の領域だった。
理由は極めて明快で、底なしの湿地帯が広がっているからに他ならない。極度に水はけの悪い泥炭層が重なる軟弱な地盤の上では、巨費を投じて特殊な地盤沈下対策の基礎工事を施さない限り、馬車が行き交う近代的なコンクリート街道を敷設することは技術的にも不可能だった。
まるで室内にまで雨が染み込んできたかのような、じっとりと湿った口調のまま、中尉はさらに追及するように声を潜めた。
「少尉。あの底なしの湿地帯を経由して国内に持ち込まれたということは……これの出処は、やはり『あの国』以外にはあり得ませんね」
その言葉は、俺が最も懸念していた最悪の予測を正確に射抜いていた。
帝国南部を阻む広大な湿地帯と、網の目のように引き裂かれた三角州(デルタ地帯)は、帝国の統治を拒む好戦的な武装部族や、闇の交易で巨富を貪る海賊たちの巨大な共同体と化している。
複雑怪奇な水路と魔物の存在に阻まれ、正規軍ですら容易に手を出せないその地域は、周辺国を巻き込んだ慢性的な国境紛争と、底知れない治安悪化の温床であり続けていた。
そして、その泥濘の奥深くに潜み、帝国へ向けて違法な毒を垂れ流し続ける不穏な隣国。その国の名は、通称『沼蛮国』――帝国の南端にへばりつく、最も厄介な禁忌の地であった。
「中尉、南部保税倉庫の駐屯部隊だけでなく、前線を支える開拓団――屯田兵の集落からも手動可能な兵力を一斉に捻出すべきです。今すぐ網を張り、この地に巣食う闇商人どもを徹底的に駆逐しなければなりません」
机上の書類を睨みつけながら、俺は一気にまくし立てた。
帝国法が麻薬に対して一分の慈悲も与えないのは、単にそれが治安や経済を脅かすから、という生ぬるい理由からではない。麻薬という存在が、国家そのものを内側から食い破る最凶の兵器であることを、俺たちは『知っている』からだ。
帝国の礎を築いてきた、先人の異世界人たち。彼らは口を酸っぱくして、麻薬がもたらす国家破滅を警告し続けていた。国境を越えた巨大な犯罪組織が法執行機関を金貨で手懐け、国家の首脳陣までをも汚染して統治能力を完全に剥奪していく恐怖。
そして、ひとたび蔓延した麻薬によって大国が骨抜きにされ、他国の侵略を許して植民地へと転落していった歴史の数々。異世界人が遺したその生々しい知識の記憶こそが、帝国をして、麻薬の萌芽を絶対に許さない冷徹な鉄槌を振るわせているのだった。
「少尉。普段のあなたに似合わず、ずいぶんと感情的になるのですね」
中尉は相変わらずの湿った笑顔のまま、値踏みするような視線を向けてくる。
「中尉も知っているでしょう。この世界で、あの麻薬戦争のような泥沼の歴史を再現させるわけにはいかないんですよ」
――そして何より、俺が将来手に入れるはずの、快適で安全な隠居生活のために麻薬なんて代物は邪魔極まりないのだ。
これまでは、底なしの湿地に畑を造るための大規模な排水工事や、山間部から大量の土砂を運搬して地表の性質を強引に変える『客土』の計画は、国家の膨大な予算と歳月を浪費するとして、ずっと後回しにされ放置されていた。
だが、あの泥濘が麻薬の密輸ルートとして利用されているというなら、もはや話は別だ。参謀本部に予算を認めさせる大義名分としてはお釣りが来る。
まずは、軟弱地盤を貫く鋼杭と、頑強な厚肉木床版を組み合わせた高床式の桟橋道路を突貫で敷設する。
これにより、警備部隊の巡回速度と密度を劇的に向上させ、あの泥沼を完全な監視下に置く。その上で、末端の密売人どもだけでなく、裏で糸を引く犯罪組織の根幹ごと徹底的に壊滅させてやるのだ。
あれから二か月が経過した。
この二か月の歳月は、南部国境の景色を塗り替えるのに十分だった。新設された高床式巡回路と、圧倒的な物量で増強された警備部隊の連携により、湿地帯の密輸網は実質的に崩壊。麻薬の流入は事実上の根絶状態へと向かっていた。
そして、防圧の網にかかった獲物から、この一連の麻薬汚染を仕掛けた黒幕の全貌が白日の下に晒されることとなる。
辺境の開拓地を守る屯田兵が、不審な動きを見せていた『白綿共和国』の山岳少数民族を拿捕。
その過酷な尋問の末、麻薬流通の背後に潜んでいたのは、同国の政権中枢から追いやられつつある「北部主要民族」の影であることが判明した。
「少尉。『白綿共和国』の北部民族ですか」
「中尉。彼らなりの合理的理由があったのでしょう」
彼らは山岳少数民族を仲介役とし、さらに『沼蛮国』の海賊や武装部族を隠れみのとして利用することで、帝国を標的にした大規模な密売を行おうとしていた。
その犯罪行為の背景には、冷酷なまでに合理的な経済的飢餓が存在していた。
白綿共和国の北部主要民族は、従来、日用品や工芸品、農機具などの製造業と鉱山運営によって、国内随一の富を誇っていた。その製品の大部分を消費していたのが、農業中心の南部地域だった。
だが、悲惨な南北戦争(内戦)の終結後、南部臨時政府が主導する戦後復興計画がすべてを破滅へと導く。南部の再生戦略は、徹底的な「綿花の単一栽培」と「帝国への隷属的依存」だった。
国内の産業を綿花の一極生産に特化させ、それを帝国へと輸出する。その代わり、食料から日用品にいたる生活物資のすべてを帝国から輸入する。話は至極単純だ。帝国に資源を捧げ、それ以外のすべてを帝国に依存する歪な経済の縮図である。
この計画により、南部は帝国の庇護下で急速な経済発展を遂げた。だが、その影で北部の既存産業は完全に息の根を止められた。南部という買い手を失ったばかりか、帝国の巨大資本が北部の工業街にまで進出し、在来の工場や商会を駆逐し始めたのだ。
北部の工場街では、工場の煙突が止まり、市場から自国の商品が消え工員が失業している。白綿共和国において、北部だけが外貨を獲得する術を失い、飢えを待つだけの身に転落した。彼らの生活は、制度の変化に一瞬で押し潰された。
「少尉。彼らは合理的だったのに何故、失敗したのでしょうか」
「中尉。部分最適が、必ずしも全体最適に繋がらないのが現実です」
――理屈の上では合理的で完璧だが、実際の現場では役に立たず失敗することは、よくあることだ。
飢窮した彼らが導き出した解答が、帝国への麻薬密輸だった。帝国から富(外貨)を吸い上げ、「麻薬による大国の弱体化」を帝国に直接叩き込む。帝国軍(警備隊)の迎撃によって破綻したという結末を除けば、それは持たざる者が放つ逆襲の矢として、恐ろしいほど合理的であった。
その片棒を担いだ山岳の少数民族たちには、そんな高尚な政治的意図などあろうはずもない。ただ、北部の特権階級たちが提示した、輝く帝国金貨の魅力に抗えなかったというだけの話である。
数日後。
「少尉。参謀本部ですが、『沼蛮国』への『平和維持活動(PKO)』派遣を正式決定したようです」
「合理的ですね」
帝都の空は、恐ろしいほど穏やかに晴れ渡っていた。
読んでくださり、ありがとうございました。




