第203話:世界大戦 その九十四
比帆諸島共和国首都島、移住者向け説明会場。
近くの港からは、天空に向けて高々と黒煙が立ち上っている。帝国海軍が誇る特設巡洋艦――通称『浴槽艦』であった(第150話)。
その威容の傍らに停泊する給食艦(第95話)の巨大な煙突から吐き出されるのは、不穏な硝煙などではない。何百人分ものパンを一度に焼き上げる、甘く温かな湯気だ。
その圧倒的な質量を初めて視界に収めた者は、帝国の誇る巨大な工業力を文字通り骨身に染みて体感することになる。説明会場へ足を運んだ民には、等しく暖かい風呂と焼き立てのパンが無料で振る舞われていた。
さらに今回、選考から漏れてしまった子供たちには、帝国の甘い菓子が土産として配られる手筈になっている。故郷へ帰った子供たちが口にするのは、帝国への反発ではない。ただ無料で与えられた暖かい湯の心地よさと、芳醇なパンの味だけだ。
子供というのは、自分が体験した極上の歓びを、大人に自慢せずにはいられない性質を持っている。
「大尉。子供を移民の選考から外したのは、このためですか。無垢な児童を利用して、帝国の豊かさを広めると」
少佐は、俺の良心が引き裂かれ、悲鳴をあげる瞬間を特等席で観賞しようとする、悪趣味な期待に満ちた瞳を向けてきた。
「少佐。後方の工廠都市とはいえ、前線が後退すれば容易に戦火へ巻き込まれます。帝国は、子供を硝煙の渦に引きずり込むような、非人道的な政策など決して行いませんよ」
帝国の主要都市には充実した職業訓練学校があり、児童は親の身分に関わらず、希望すれば高度な技術を学ぶことができる。だが――今回の受け入れ先である工廠都市には、その性質上、子供を教育し育てるための余剰施設など最初から存在しないのだ。
移住希望者の面談は、教導大隊が中心となって進めている。俺自身が直接、面接官の席に座る必要はないのだが、志願者たちの全体的な傾向と質を掴むため、初日だけは何組かの面談に立ち会うことにした。
もっとも、俺に「誰が兵士としての適格性を持っているか」などという、属人的な目利きができるわけではない。俺はそもそも士官学校の正規課程を修めていないし、実際の戦闘に突入した場合の戦術指揮は、叩き上げの中隊長たちに丸投げしているのが実態だからだ。
今回の直接面談も、ただの情報収集に過ぎない。移住希望者の傾向をいち早く把握し、選定条件を微調整し、後方の工廠都市へ受け入れ準備を回すための、極めて合理的な事務処理に過ぎなかった。
説明会場の重い扉が開き、最初の移住希望者が入室してきた。
手元の書類によれば、年齢は四十代後半。頑強な肉体を持つ畜産農家だ。安全な後方の工廠都市へ、家族全員での移住を強く望んでいる。
「隊長さん……。俺は鉄も叩けるし、旋盤だって扱える! 息子たちだって体格は良い、きっと帝国の役に立てるはずだ」
男の横には、張り詰めた空気に怯える妻と、二十代と思われる三人の息子たちが押し黙って立っていた。家族を飢えさせまいとする父親の、必死な嘘だった。
「嘘をつく必要はない。工廠都市の周辺には、現在、大規模な国営牧場が建設中だ。比帆諸島とは違って羊はいないが、軍馬や輓牛を管理する仕事ならいくらでもある」
男の顔から、みるみる血の気が引いていく。共和国政府から引き渡された情報を元に、帝国の役人が事前に島々を巡回して綿密な聞き取り調査を行っているのだ。隠そうとしたところで、彼らの前歴の確度は初めから見透かされている。
「もちろん、将来的に蒸気機関の運用や、建設土木の技能を身につけたいという熱意があるのなら大いに歓迎する。だが、今回の移住は強制ではないし、無理を強いるつもりもない。家族揃って新しい土地での生活を軌道に乗せたいのであれば、最初は最も経験を活かせる職に就くのが合理的だ」
俺は、まだ硬直している男に対して、どこまでも淡々と説明を続けた。
「すまねぇ、隊長さん……。俺はただ、必死で……。どうか、家族全員で生きていけるよう、お願いします」
男は、堰を切ったように涙を流しながらも、深々と頭を下げて審査室を退出していった。
「大尉。あなたは、ごく稀に妙な優しさを見せることがありますね」
(酷い言い草だ。この男は、俺の反応をからかって嫌みを言うのを、純粋な娯楽にしているのではないだろうか)
「少佐。東部への鉄道敷設が遅滞している現状、重火器を運ぶ足は軍用輓牛の牽引力に頼るしかありません。それに、前線の索敵を兼ねている快速銃騎兵隊の軍馬も圧倒的に不足しています」
工廠都市でどれほど強力な大砲を量産したところで、それを最前線へ輸送できなければ何の意味もない。工廠都市とは、単に兵器を生み出すだけの工場ではないのだ。
次に審査室へ入ってきたのは、目つきの鋭い二十歳前後の若者だった。手元の書類によれば、家族を食わせるために兵役を志願したとある。
「兵隊さん……。新兵訓練施設にいる間も、帝国から給与が支給されるというのは本当なんですか」
若者は、港で船の荷下ろしに従事しているという。所属こそそれなりに大きな商会だが、実態は日雇いに近く、毎日仕事があるわけでもない。収入は常に不安定だった。
「それと……。もし俺が死んだら、家族には殉職弔慰金が支払われるのでしょうか」
若者の両眸には、自らの命を天秤にかけた強い覚悟が宿っている――ように見えた。もっとも、俺には他人の覚悟の重さなどよく分からない。
「訓練期間中であっても、予備役としての給与は保証される。だが――殉職弔慰金が給付されるのは、帝国の国籍を持つ者だけだ。現在は、現金ではなく国債での支払いとなっている。比帆諸島共和国の編入は既定路線だが、現時点で言うのなら、君に帝国国籍は付与されていない」
若者は、期待を裏切られたような、あるいは逆に安心したような複雑な顔を見せ、家族と相談すると言い残して静かに退出していった。
単純な給与の額面だけで言うのならば、工廠都市での建設土木作業より兵役のほうが遥かに高く設定されている。新兵訓練を無事に終えれば、基本給も少しは上がる。だが――死んでしまえば、文字通り何も残らないのだ。
今すぐの現金を求めて銃を取るのか。それとも、少しでも家族に遺産を残すために帝国の正式併合を待つのか。あるいは、貧困に喘ぎながら現状の生活にしがみつくのか。
彼らの命の行方を決めるのは、彼ら自身の選択だ。――俺は決して嘘をついたり、騙したりするわけではない。
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