第200話:世界大戦 その九十一
比帆諸島帝国領地、海軍庁舎士官室。
窓から差し込む陽光は穏やかだ。数日前まであの洋上で、両軍が有効射程の限界線を見極めながら互いの主砲を向け合い、演習という名の冷徹な圧力をかけ合っていた気配など微塵も残していなかった。
帝国と『合衆国』による十日間の合同演習は、初日の無人木造船爆破事件という火種こそ残したものの、致命的な衝突に至ることなく収束した。
それは単に、極限の睨み合いの中で「全員が引き金を引かなかった」という、偶然の平穏に過ぎなかったのかもしれない。だが、開戦を未然に防ぐための大がかりな示威は、その機能を示したと言えるだろう。
「大尉。あの木造船について、何かわかりましたか」
少佐は俺に視線を向けることもせず、士官室の窓越しに広がる水平線を見つめていた。その横顔の表情は窺えないが、声音にはどこか愉しげな響きが混じっている。
「少佐。俺に分かることなど、一つもありませんよ」
あの爆破された木造船についての真相は、いまだ闇の中に包まれたままだ。
だが、動機から逆算するのであれば不可能ではない。霧宮が帝国と『合衆国』の連携能力や実戦反応速度を値踏みするための威力偵察、あるいは比帆諸島連邦の過激派が列強同士を衝突させ、その漁夫の利を得ようとした可能性――。
動機だけで言うなら、この海域に蠢くあらゆる勢力が動機を持ち得た。
しかし、物理的な実現可能性を考えたとき、大きな矛盾が立ちはだかる。霧宮にせよ過激派にせよ、あの鉄壁を誇る帝国海軍の警戒網を突破し、演習中の、しかも帝国側の喉元へ寸分違わず無人船を送り込んで爆破させることなど果たして可能なのだろうか。
そして、事件の翌日には既に刷り上がっていた奇妙に早い特報と、連日のように垂れ流される、俺の名を使った「英雄的救助活動」という名のプロパガンダ。その効果は絶大だった。
あの事件を境に、国内では霧宮への警戒心がかつてないほど高まった。それと歩調を合わせるように、合衆国との軍事的な連携強化を望む声が瞬く間に主流派を占めていく。
感情を排し、結果という冷厳な事実だけを見れば、あの爆破事件で最大の政治的・軍事的利得を得たのは帝国だ。――それを証明する足跡など、どこにも残されてはいないが。
帝国が仕組んだ自作自演の謀略なのか。それとも、偶発的に起きた謎の事故を、参謀本部や海軍司令部が天才的な手際で完璧に事後利用しただけなのか。
少佐は俺に顔を向け、目を細めて静かに微笑んだ。その含みを持たせた笑みが、俺の推測を肯定しているのか、あるいは嘲笑っているのかは判然としない。
「少佐。いずれにしても後日、帝国から“事実”が発表されますよ」
帝国が公式に発表する見解こそが、周辺国が共有する事実となる。そして俺は、自分が望む安全で快適な隠居生活のためにも、余計な事実を知る必要はないのだ。
俺は冷めきった苦い珈琲を飲み干した。安全な後方へと帰還できるという淡い期待は、今しがた無残に打ち砕かれたばかりだ。演習が幕を閉じたというのに、俺と教導大隊には、この海域にとどまるよう「待機命令」が下されている。
――「街道大尉殿。海軍艦型試験池の大佐殿がお呼びです。上級士官食堂までお越しください」
扉を叩く軽い音がして、まだ十代とおぼしき伝令兵が室内へ滑り込んできた。着こなせていない真新しい軍服が、彼の身分を物語っている。新兵たちの大半は、“英雄・街道大尉”という二つ名を持つ俺を純粋に尊敬し、敬意を持って接してくる。
その実態が、周到なプロパガンダによって捏造された紛い物の英雄だとは夢にも思っていないのだろう。だが、虚構であれ欺瞞であれ、兵たちの士気と戦意を担保する精神的支柱になるのであれば受け入れるしかない。
――それほどまでに、帝国は人的資源すらも不足しているのだ。
大佐殿との食事会は逃げ場のない憂鬱な時間ではあるが、上級士官食堂の飯は旨い。名目上、即応待機ではなく海軍庁舎での駐屯待機という理由で、酔うほどではない少量の葡萄酒も黙認されている。
「たまには少佐も、大佐殿との食事会に参加したら……」
振り返ったそこに、男の気配はなかった。先ほどまで俺の傍らにいたはずの少佐は、完全に姿を消している。俺が新兵の対応に気を取られている間に、さっさと士官室から逃げ出したのだろう。
面倒な政治劇の席からは早々に消える。相変わらず、食えない男だ。
――上級士官食堂。
「来たか街道大尉。今日は良い話があるぞ」
大佐殿は、愛用の煙草の煙をこれみよがしに吐き出しながら、満面の笑みで俺を迎えた。
「はっ、大佐殿。拝聴いたします」
だが、過去の経験上、大佐殿の言う「良い話」が俺にとっての破滅を意味しなかったことはない。今回もまた、新兵器の「技術実査」というもっともらしい名目で前線に連れ出される可能性がある。
俺は、運ばれてきた極上の料理が「最後の晩餐」にならないことを祈るほかなかった。
読んでくださり、ありがとうございました。




