第199話:世界大戦 その九十
比帆諸島沖合、上空二百五十メートルの係留気球。
「――あちらの現場を、よくご覧ください」
俺は隣で双眼鏡を握りしめている環山連邦の観戦武官に向けて、低く落ち着いた声で静かに告げた。
ギギ、ギチチ……。
気球の籠が悲鳴のような軋み声を上げ、激しく傾く。引き絞られた数本の係留索が、風を切って不気味な唸りを響かせていた。
無風であればさらに五十メートル上、三百メートルまで上昇可能だが、この風では限界だな。だが、この高さでも十キロ以上先にある霧宮艦隊の「手前の船」と「奥の船」の位置関係は、ぎりぎりだが確認できるだろう。
「観戦武官殿。所属不明船の残骸には生存者の姿がありません。――そして、霧宮艦隊の砲艦は最も奥に位置しています。目算で距離十三キロメートル、射程外と見ていいでしょう」
観戦武官は無言のまま双眼鏡を動かし、海面に浮かぶ黒い残骸と、その後方に整然と展開する霧宮の艦影を見比べた。
「……大尉殿。帝国と『霧宮王国』、共に一発も撃っていないと言うことか」
「ご覧になられた通りです。そして帝国は事態の第一報を受けた直後、直ちに橙色の救助信号を発しております。攻撃ではなく、救助のために」
俺は言葉を選びながら、それ以上は語らなかった。結論を口にする必要はない。観戦武官自身にその目で見て、頭の中で組み立ててもらえばそれでいいのだ。
――ウォーン。
強風を受けた係留索が、まるで楽器の弦のように風鳴りを起こす。俺は気球降下の伝令筒を落とし、アルガン灯で周囲に浮かぶ気球に合図を送った。
(落ちることはないと思うが、さすがに怖くなってきた。確認は十分にできた、もう降りてもいいだろう)
アルガン灯の強い光がどんよりとした曇天を照らし出すと、周囲の観測気球から了解を示す光信号が揺れながら返ってきた。下降中も観戦武官は無言のまま双眼鏡を覗き込んでいる。
観戦武官はしばらく黙り込んでいたが、静かに手元の記録帳を閉じた。そして、低い声で語りかけてきた。
「……大尉殿。これは、帝国が仕組んだ自作自演の芝居ではありませんか?」
刺すような疑念の言葉。だが、俺は表情ひとつ変えずに答えを返した。
「――観戦武官殿。犠牲者も生存者もいない芝居に、一体誰が意味を見出すというのでしょうか」
俺は肯定も否定もしなかった。――ただ「帝国なら意味のない芝居はしないだろう」と観戦武官自身が判断してくれれば十分だった。
観戦武官は俺の目をじっと見つめ返し、軽く肩をすくめた。
「……いいでしょう。大尉殿、私は本国へ『見たままの事実』を報告します。帝国軍が迅速に救助活動を行い、いかなる軍事行動も起こさなかった……とね。――あくまで、私がこの目で見た範囲の『事実』だけですが」
俺は双眼鏡を覗き込み、遠く展開する霧宮の艦隊を見つめ続けていた。彼らはいまだに沈黙を保ったまま、演習を再開する様子も、逆に後退する様子も見せない。
――静観、か。
俺は気球の籠の縁に手をかけたまま、大きく息を吐いた。所属不明船の爆発。状況的には霧宮による砲撃の可能性は低い。少なくとも今この瞬間だけで言えば、霧宮が積極的に事を構えるつもりはないのだろう。
――数時間後、指揮巨大艦司令塔。
救護班の報告では、あの木造船に生存者は確認できなかったとある。正確には、人影も遺体も見つからなかったのだ。あの大きさの帆船なら、最低でも三十人以上の船員が必要なはずである。
そして回収された空の木箱には、『比帆諸島連邦』の商会の名が刻まれていた。
「大尉。所属不明の木造船、あなたはどう思いますか?」
少佐は優雅に珈琲を飲みながら、インクが乾くのを待つ間だけのような、意味のない微笑を浮かべている。
「少佐。どのような立場であっても、それぞれに相応の理屈が存在するものです。実際に『ある』事実なら、それを隠し通すことは難しいと言えます」
少佐は珈琲を机に置き、俺を見た。
「――つまり」
「少佐。現時点では何も分かりません」
もし本当に商船なら演習場に近づくわけがない。偶然迷い込んだとしても、荷はなく人も乗っていないのは明らかに不自然だ。
誰が何の目的で無人商船を爆破したのか。連邦の過激派か、合衆国の暗躍か、霧宮の罠か、それとも俺が知らないだけで帝国の自作自演なのか。ただ「全員が引き金を引かなかった」というだけだった。
こうして、緊張感に包まれた演習の一日目が終了した。
――翌日の朝、比帆諸島帝国領地、海軍庁舎士官室。
(……演習期間は十日間。つまり今日を入れて残り九日。俺が最初に書いた仕様書では三日間だったのに、なぜこんなことに)
俺は憂鬱な気持ちを切り替えようと、珈琲を飲みながら机の上に置かれた新聞に目を落とした。
――『危機を救った英雄・街道大尉! いち早く救助信号を発し人道救助の陣頭指揮で大活躍!』
「……何だ、これは」
記事には、俺がいかに迅速に状況を判断し、敵味方の概念を超えて救助活動を指示したかが大々的に書き立てられていた。なぜ昨日の演習で起こったことが、もう新聞記事になっているのだ。
「大尉。事実を隠し通すことは難しいようですね」
朝の光の中で優雅に珈琲を飲む少佐が、楽しそうに目を細めている。
「少佐。これは事実ではなく、捏造というのです」
参謀本部、いや海軍司令部か。事実を隠し通せないなら、俺を使ったプロパガンダで上書きするつもりか。
士官室の窓から見える水平線を眺めながら、俺は逃げ出す方法を考えたが、不可能なので考えるのをやめた。
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