第2話:執務室
(回想:七日前)
馬車に揺られて二日が過ぎた。
街道はそれなりに整えられてはいたが、舗装なんて概念は、この国にはないらしい。
車輪が石を跳ねるたびに、俺は必死に窓枠を掴んで姿勢を保った。
窓の外を流れるのは、農地、原っぱ、森、川、また畑。そして点在する村。
一見すればのどかな田舎の風景だ。
だが、俺の目はある一点に釘付けになった。
農地の広さが異常なのだ。見渡す限り続く広大な耕作地。
これは個人の農家が営める規模じゃない。
「……組織的に管理されてるな」
隣に座る兵士たちは一言も発さない。俺も余計な詮索はせず、ただその光景を脳に刻んだ。
宿場の村で案内されたのは、メイドのような格好をした女性がいる、それなりに綺麗な家だった。
床は土ではなく板張り。寝台には藁の詰まった麻袋が敷いてある。
「……鼠がいない。それだけで御の字か。楽しみは、寝床に鼠が居ないことだけ」
少しだけ安堵して夜空を見上げると、星の配置には見覚えがなかった。
翌日の昼、馬車が辿り着いたのは巨大な「城塞都市」だった。
高くそびえる石壁と、門に並ぶ衛兵たち。
商隊が長い列を作っている。
財布の中のマイナカードを指先でなぞった。
こんなプラスチックの破片が、この場所で身分証になるんだろうか。それに、これが身分証だと言うのは分かるが、これを見ても名前が思い出せない。
検問は拍子抜けするほどスムーズだった。
街に入ると、石畳の広い通りと整然と並ぶ建物が迎えてくれた。
街灯らしきものまである。
街の中心、軍の施設らしき三階建ての建物の前で馬車が止まった。
廊下ですれ違う人々は皆、同じ色の制服に身を包み、無機質な表情で早足に通り過ぎていく。
案内されたのは、三階にある広々とした執務室だった。
壁には大陸全土を記した巨大な地図。
複数の色で線が引かれ、数字が書き込まれている。
窓際の机には、三十半ばの、鋭い眼光を持つ男が座っていた。
「中尉」と呼ばれたその男は、感情を一切表に出さない、訓練された目をしていた。
「座ってください」
促されるまま椅子に腰を下ろす。
机の上に置かれた書類の束。その一番上、見覚えのない文字で書かれたタイトルが、なぜか鮮明に読めた。
『異世界人確認報告書』
「率直に伺います。あなたは、別の世界から来ましたか」
男の問いに、俺は迷わず、しかし丁寧に答えた。
「はい。そうです。日本という国から来ました」
俺はスマホと財布の中身をすべて机に並べた。マイナカードさえも。
今思えば、あの時の俺は、自分の存在を証明する何かに縋りたくて仕方がなかったんだろう。
男は淡々と書類にペンを走らせる。
「名前を教えていただけますか」
「……思い出せません」
「……そうですか。記憶が曖昧な状態でこちらへ来る方は、多いですから」
「多い」――。その複数形に、俺は思わず身を乗り出した。
「他にも、私のような人間が来ているんですか」
男は地図に視線を落とした。
「います。今も、“ここ”に」
「さて、本当に異世界人かどうか確認するために、いくつか質問をします」
・日本一高い山
・日本の国旗の名前
・日本の国鳥
・桜の季節
どれも、日本人なら反射で答えられるものばかりだ。
・忍者が消えるときの音
・パンはパンでも、食べられないパン
・「グー・チョキ・パー」の「チョキ」の出し方
・大富豪のローカルルール
次第に問題の毛色が変わってくる。
さらには「北海道三大ラーメン」や「地元の人が行かない観光地」なんてものまで。
「第二十三代内閣総理大臣の名前」に至っては、正直にお手上げだと伝えた。
「――では、そこで体育座りをしてみてください」
言われるがまま、床に足を抱えて座る。これの作法なんて考えたこともなかったが、体に染み付いた形をとった。
すると突然、聞き慣れたあのメロディが流れ出した。
タンタン、タタタン、タンタン、タタタン――
ラジオ体操第一。
気がつけば俺は立ち上がり、無意識に背筋を伸ばしていた。
男が今日初めて、わずかに口角を上げた。
「確認できました。……いや、失礼。私もそうだったのですが、このテストでラジオ体操を流すと、皆、序奏だけで反応してしまうんですよ。
染み付いた習性というのは恐ろしいものですね」
「……あなたも、ですか」
「お察しの通り。私も日本人で、今は軍で異世界人の捜索と『監視』を担当しています。階級は中尉です」
男――中尉は、地図を指し示しながら淡々と続けた。
「あなたの今後の生活ですが、選択肢は二つあります。
一つは、この国に協力すること。軍、あるいは直営のギルドに所属する道です。もう一つは、一民間人として生活すること」
「……」
「ただし、民間人の場合、他国への移動は許可されません。この国の法で、異世界人は国の管理下に置かれることが決まっています」
俺の答えは、考えるまでもなかった。
「国に協力します。軍に入れてください」
「いいのですか? 民間人として静かに暮らす道もありますが」
中尉の確認に、俺は、自分でも驚くほど切実な愚痴をこぼした。
「……耐えられないんです。この世界の生活レベルに。鼠が出る家、藁のベッド、泥水みたいなスープ。あんな環境に戻るくらいなら、何だってやります」
中尉は、今日一番の笑みを見せた。
「ああ、よく分かります。軍に入れば、その辺はかなり改善されますよ。
それに、あなた自身が提案し、技術を提供すれば、この国の文明レベルそのものを引き上げることもできる」
「……」
「何か、特別な技能や専門知識はありますか?」
俺は必死に記憶の引き出しを開けた。ここで価値を示せなければ、清潔な風呂もまともな飯も手に入らない。
今まで見てきた景色――田舎の村、未整備の街道、広大な畑。
文明レベルは中世後期くらい、技術レベルもそうだろう。
ネットとパソコンがあれば、役に立てるが、そんなものは絶対にない。
「……肥料と農薬が作れます。この世界の素材で再現できる範囲ですが。あとは土木。水硬性コンクリートがあれば氾濫は防げますし、トラス構造を使えば大きな柱を使わずに堅牢な建物が建てられるはずです」
他にも思いつく限りの知識を並べ、自分を売り込んだ。
俺は、ゼネコンの現場監督か、商社の建材部門だったのかもしれない。
中尉は面白そうに頷いた。
「つまり、専門家ではないが、広く浅く知識を持っていると。……いいでしょう、あなたにぴったりの任務があります」
「任務、ですか」
「明朝、一緒に帝都へ向かいます。今日はもう休んでください。……ああ、食事はそれなりのものを用意させますよ」
俺は最後に、救いを求めるように聞いた。
「……シャワー、浴びれますか。それと、着替えを」
「ハハハ! 風呂の準備には二時間ほどかかりますよ。服も洗濯させましょう。
……石鹸や洗剤の作り方も、考えておいてくださいね。それと、日本の国鳥は鶴ではなく雉です。」
素で間違えたようだ。
案内された個室に入り、俺はベッドに倒れ込んだ。硬たい。
「……普通、こういうのって政治が中世なだけで、飯や街並みは現代風ってのがお約束だろ!なんで文明までガチの中世なんだよ、詐欺かよ……!」
こんな不潔で不安な世界に、そのまま適応なんてできるか。
中尉は言った。俺自身が、生活レベルを上げられると。
「……やってやる。前の世界のことは知らねえが、快適な生活のために、俺の知識は全部使い切ってやる」
すべては、俺自身の平穏で安全な生活のために。
読んでくださり、ありがとうございました。




