第196話:世界大戦 その八十七
比帆諸島帝国領地、海軍庁舎士官室。
窓の向こうに横たわる比帆諸島の海面は、どんよりとした曇天の下、磨き抜かれた装甲板のような鈍い光沢を湛えながら、開戦の火蓋を切るまでの虚無を隔てる境界線として、厳然とそこに横たわっていた。
「大尉。参謀本部からの下命です。技術教導特務大隊は状況に応じて適切に行動せよ、とのことです」
「少佐。随分とあいまいな命令ですね」
(なんということだ。これでは成功すれば参謀本部の手柄、失敗すれば俺の責任ではないか。今後の行動一つで俺の未来が決まる。なんとしても前線送りだけは避けなければならない)
帝国東部では、赤旗国との激烈な消耗戦が年単位に及んでおり、前線が要求する兵站は帝国の国力を底から削りつつあった。
弾薬、食料、そして兵員。すべてが枯渇の危機に瀕しているのが帝国の隠せぬ実情だ。これ以上の戦線の拡大、新たな兵站の浪費など、国家の破滅を意味する。
前線の火砲不足を補うため、『合衆国』製の陸戦砲を導入しようとしているまさにこの時期に、比帆諸島で新たな軍事衝突が始まれば、帝国は二面作戦に引きずり込まれることになりかねない。
『霧宮王国』が『比帆諸島連邦』の領海付近において大規模な軍事演習を行うという通知を周辺国に出している以上、こちらから近づくのは極めて危険だ。一方で周辺国にとっては自国の安全保障に直結するため、軍事的な警戒態勢を強めることになる。
特に『比帆諸島連邦』には過去の因縁もある。演習を隠れみのにした本物の侵攻を阻止するため、沿岸防衛部隊や砲艦連隊の展開、水際での阻止陣地の構築を急いでおり、それがさらなる緊張を呼んでいた。
いや、『霧宮王国』の目的そのものが演習の「常態化」による消耗戦なのかもしれない。霧宮が演習を長引かせたり頻発させたりすることで、『比帆諸島連邦』と帝国の防衛戦力を精神的、物質的に消耗させる——平時と有事の「境界線上で行われる妨害活動」だ。
「大尉。あなたは、どうするつもりですか?」
俺の脳細胞のすべてが沸騰せんばかりに激動し、千載一遇の可能性を掴み取る。脳内に散らばっていた点と点が爆発的な速度で線へと繋がった。
「少佐。教導大隊にできることは、ほとんどありません。俺にできるのは仕様書を書くことだけです」
少佐は無表情のまま、計算通りの結末を確信したかのように頷いた。
――俺は一晩掛けて、仕様書を書き上げた。
三日後、上級士官食堂。
ここ二日ほど大佐殿に食事に誘われなかったので諦めたかと思ったが、再び大佐殿との煩わしい食事会が始まってしまった。食事が旨いからという理由で断り切れない俺にも問題があるのかもしれない。
「街道大尉。この作戦は、お前が発案者らしいな」
大佐殿は指に挟んだ愛用の煙草から紫煙をくゆらせ、こちらの動揺を愉しむかのように静かに言葉を紡いだ。
「はい。……いいえ、大佐殿。本官は上層部の命令に従い、現場の状況に合わせた初期案を上申したに過ぎません。本作戦を立案し決定したのは、参謀本部と海軍司令部であります」
「そうだな、お前はそういう奴だったな。街道大尉」
俺は何も知らされていないが、教導大隊の待機命令は継続中。そして海軍庁舎は緊張感に包まれ、皆が慌ただしく動いている。俺が提出した仕様書の一部が採用されたということだろう。
しかし、これで帝国は『合衆国』への依存度を高めることになるかもしれない。いや、俺がそこまで考える必要はないな。これで俺は比帆諸島で待機となる。しばらくは安全なはずだ。
士官室に戻ると、少佐が優雅に珈琲を飲みながら外の景色を眺めていた。
(……この男、先ほどまで居場所が分からなかったのに、いつの間にか戻ってきている。完全に大佐殿との食事会を避けているな)
「大尉。五日後に予定されている『霧宮王国』の大規模演習ですが、『比帆諸島連邦』海域の警備は帝国海軍が担当することに決まりました。既に警備隊は出航しています」
「何とか、間に合ったようですね」
極度の緊張状態にある『比帆諸島連邦』の海上警備隊が前に出れば、行き過ぎた監視活動による偶発的な異常接近や衝突の恐れがある。一発の誤射から始まる全面的な軍事衝突(開戦)は、何としてでも防がなければならない。
『比帆諸島連邦』政府としても、危険な海域の警備を帝国に任せれば、沿岸防衛部隊と阻止陣地の構築に集中できる。短期間でここまで調整するとは、帝国は軍部だけではなく政治的な面でも優秀な人材が揃っているようだな。
なにより警備隊が出航済みということは、俺は危険な警備任務に当たらなくてもいいということだ。演習が終わるまで旨い食事を続けるのも悪くないな。
「それと大尉。帝国と『合衆国』による合同演習も決まりましたよ」
少佐は合同演習の内容が書かれた一枚の書類を、机へ滑らせた。
「少佐。これも予定通り合同演習とは名目だけで、実際は『合衆国』の小型高速船の運用実演ですね」
『霧宮王国』が大規模演習で圧力を掛けてくるのならば、こちらも大規模演習で圧力を掛ければ良いのだ。
帝国や『比帆諸島連邦』から先に霧宮を撃てないように、霧宮も『合衆国』を撃つことはできないだろう。
霧宮は今まで徹底して自国が直接戦うことを避けてきた。もし『合衆国』と軍事衝突することになれば、霧宮は帝国と『合衆国』という二つの列強国を相手にすることになる。
もっとも、兵站が枯渇寸前の帝国は開戦など望んでいない。だからお互い、この海域での演習は早期に終わらせようという無言の外交交渉だ。
「大尉。安心しきっている顔をしていますが、あなたは技術実査担当官です。合同演習には、当然参加です」
「待ってください! 少佐。技術実査担当官は大佐殿が勝手に……」
――安全な後方任務のはずだった。だが俺は、わずかな火花で全面戦争に転じかねない海域の、最前列に立たされることになった。
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