第187話:世界大戦 その七十八
帝国東部、後方観測拠点。
俺は少佐に向かって素早く言葉を投げかけた。
「少佐。前線陣地の防衛隊は現在、敵の精密砲撃によって陸戦砲を破壊され、漸減する防衛線を維持しています」
観測気球から見下ろした光景を、俺は頭の中で冷静に整理し直していた。
四キロ先で防衛にあたっているのは三個大隊、およそ九百名。敵の強烈な砲撃によって砲兵火力を奪われたものの、塹壕そのものと大部分の兵員は持ちこたえている。
複合式大型機関銃さえ生きていれば、敵歩兵の突撃を止めること自体はそれほど難しくないはずだ。
問題は、そこではない。
機関銃陣地がいくら健在でも、敵の接近する時機を事前に把握できなければ意味がない。上空から観測して、俺はようやく理解した。予備砲撃が止み、歩兵が突入してくる――その移行の頃合いが、あまりにも絶妙すぎるのだ。
まるで、防衛側の疲労と混乱が最も深まった瞬間を、正確に見計らっているかのようだった。
気球の上からでも、『赤旗国』軍の観測部隊らしき影は一切確認できなかった。それにもかかわらず、こちらの陣地状況は恐らく正確に把握されている。
(……上空から見えなかった敵観測部隊を、短時間で見つけ出すのは不可能だな。今は、目の前の九百名をどうするかだ)
帝国はこれまでも、東部前線において基本的には「撤退禁止」を課したことはないはずだ。それこそ陣地に張り付く死守任務は、主力部隊の「退路」を確保する場合の殿か、大型要塞ぐらいだろう。
列車砲や自走砲といった決定力のある兵器が完成するまで、常に縦深防御で時間を稼ぐ。それが、これまでの帝国軍の一貫した戦い方だった。
つまり、あの陣地の指揮官も、恐らく「遅滞行動」――時間を稼ぐこと自体を任務として理解しているはずだ。
「少佐。このままでは遅からず全滅します。教導大隊はこれより疎水沿いへ移動し、新陣地の構築を開始します。俺は護衛の二個中隊を率い、防衛陣地後方の司令部へ直接向かいます」
「大尉。あなたに前線の部隊を動かす権限は、ありませんよ」
少佐が愉悦を孕んだ視線を向けてくる。
「少佐。戦線を放棄しての撤退ではなく、陣地転換を具申するだけです」
教導大隊に対し、後方の第七大型開拓疎水沿い(第141話)へ防衛陣地の構築を開始するよう命じ、俺は護衛の二個中隊を引き連れ、陣地後方の司令部へと移動を開始した。
先ほどの観測と計算が正しければ、ここはまだ吹き飛ばないはずだ。
――防衛隊司令部、仮設天幕。
「連隊長殿。参謀本部所属、技術教導特務大隊副官。大尉であります」
「貴官が、あの“英雄街道大尉”か。英劇の役者とは、随分と印象が異なるな」
(あの演劇はプロパガンダで概ね創作だからな。だが知っているなら、それはそれで利用してやる)
「連隊長殿。意見具申いたします。現在教導大隊が、後方の開拓疎水沿いで新たな防衛陣地を工作中であります」
連隊長殿は、疲労の色を濃く滲ませながらも、鋭い視線をこちらに向けてきた。
「後方に……。まさか、我々に撤退しろと?」
「撤退ではありません。遅滞効果を最大化するための陣地転換です」
俺は素早く広げた地図を指差し、努めて淡々と同調するように言葉を重ねた。
「敵の予備砲撃は驚くほど正確です。このまま同じ陣地に固執するよりも、段階的に陣地を後退させ、その都度、敵の突入速度を削ぎながら遅滞効果を最大化する方が、より長く時間を稼げます」
連隊長殿は地図を注視し、黙り込んだ。深く思考しているようだ。
「――連隊長殿。せめて負傷者の後方搬送だけでも、我が隊に委ねてください。『英雄街道』の名に懸けて、責任を持ってお引き受けいたします」
連隊長殿の目に、わずかな驚きが浮かんだ。
英雄の名など、本音を言えば使いたくない。だが、少しでも説得の効果を高められるなら、使わない手はない。
「……英雄か。了解した、大尉。負傷者を頼む。それと、疲弊してこれ以上戦闘が出来ない兵を預ける。適切に使ってくれ」
「了解いたしました。直ちに任務に当たります」
(疲弊と言うのは、恐怖で戦意喪失している兵のことか。まあ戦闘は無理でも荷運びくらいは可能だろう。これで陣地工作がはかどるな。人手は多いに越したことはない)
――第七大型開拓疎水沿い、新陣地建設予定地。
到着した防衛隊の兵士たちは、突貫で組まれつつある塹壕と、木造の二重壁を見て、明らかに落胆した表情を浮かべた。
「……これが新陣地か。まるで、ただの木の柵ではないか」
その反応も無理はない。今この瞬間、目の前にあるのは、ただの心もとない脆弱な木造の骨組みに過ぎないからだ。
「――全機、作業開始!」
作業に当たっていた中隊長が声を上げると、新型の蒸気機関式機械が一斉に黒煙を上げて唸りを上げた。
工廠都市から持ち込ませた「新型蒸気機関式無限軌道掘削車」と「蒸気機関式無限軌道心土破砕車」だ。巨大な無限軌道が荒野を踏み荒らし、人力の数十倍の速度で大量の土砂を掘り起こしていく。
同時に、持参してきた大量の厚手の麻布袋に、現地で集めた乾燥した砂・砂利と、水硬性石灰の粉末を混ぜ合わせた「乾燥混合材」を、次々と詰め込んでいった。
「――蒸気クレーン、揚重開始!」
木造の二重壁の間、その隙間に向けて蒸気クレーンが乾燥混合袋を次々と吊り上げ、隙間なく積み上げていく。
仕上げは、蒸気ポンプによる一斉注水だ。
疎水から引いた水が、麻袋の内部へと染み込んでいく。水硬性石灰は水と結合して強固な結晶を作り出す。要塞に使用しているコンクリート並みの強度とは言えないが、わずかな時間で表面と外周部から硬化が進んでいく。
内部まで硬化するには時間がかかるが、柔軟性がある分、割れにくい。そして何より、今必要なのは敵の砲撃に耐えうる防護壁なのだ。袋自体の重さと積層の締め固めによって、相応の防御効果は発揮できる。
前線部隊二百名という豊富な労働力が加わったことで、作業速度は劇的に向上した。
――二日後。
疎水沿いの新陣地は、当初の予定よりも早く、その骨格を完成させていた。
読んでくださり、ありがとうございました。




