第186話:世界大戦 その七十七
後方観測拠点へ向かう装甲車の車内。
「大尉。随分と慎重な行軍ですね。そんなに前線に行くのが嫌なのですか」
対面に座る少佐が、路面の起伏に合わせて揺れる車内で皮肉げに口角を上げた。厚い装甲の向こうからは、ボイラーが吐き出す重苦しい蒸気音が規則正しく響いてくる。
「少佐。教導大隊の表向きの作戦目的は『東部前線における次世代試作兵器の環境適応および運用試験』です。言わば――ただの欺瞞工作ですよ」
努めて冷静に返しながら、俺は心の中で毒づいた。
(本音を言えば、前線に行くのが嫌に決まっているだろう。誰が好き好んで戦闘狂の巣窟へ行くというのだ)
だが、この「遅い進軍」には戦術的な大義名分もある。俺が率いるのは、技術教導特務大隊四百名と護衛を務める二個中隊二百名。歩兵を含めた合計六百名の混成部隊だ。
蒸気機関装甲車の移動速度は、せいぜい人間の早歩き程度。車輌だけならもう少し飛ばせるが、外を歩く歩兵たちの足を考えればそうはいかない。
定期的に小休止を挟まなければ、前線にたどり着く前に歩兵が疲弊し、落伍者を出してしまうのは目に見えていた。
――翌日の昼。
予定していた後方観測拠点には、先行していた護衛部隊がすでに係留気球の準備を終えていた。届いた偵察報告によれば、四キロ先で激しい交戦が始まっており、状況から見て敵は新型の陸戦砲を投入している可能性があるという。
俺は嫌々ながらも、“俺自身の生存率を上げるため”観測気球に乗り込んだ。
上空二百メートル。
地上を見下ろせば、さっきまで乗っていた装甲車が玩具のように小さく見える。吹きすさぶ冷たい風に煽られ、ロープで繋がれた籠が不気味な軋み音を立てていた。
高所恐怖症でなくとも背筋が寒くなる高さだが、俺は恐怖を理性で抑え込み、冷えた真鍮の望遠鏡を覗き込んだ。
そして同時に、手元にある魔道式複合懐中時計の文字盤を注視する。敵の砲撃が始まれば、その閃光や白煙と発射音の時間差から、正確な距離と敵砲兵陣地の位置を割り出すためだ。
眼下に広がる泥濘の戦線は、これまで幾度も見てきた光景のはずだった。だが、今回はその様相が根本的に違っていた。
――ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ。
数十発の砲弾が、ほとんど同じ間隔で、同じ一直線上に着弾していく。土煙が、まるで巨大な定規で線を引いたかのように、寸分の狂いもなく並んで立ち上っていった。
最初の着弾列の後方で、さらに別の土煙が一斉に立ち上がった。砲弾は一直線に並んでいるのではない。前線陣地を幾重もの帯状に切り分けるように、広い範囲へ正確に降り注いでいた。
多門同時弾着による面制圧。
個人の熟練度や長年の勘などという生温かいものではない。規格化された精密な砲身、そして測距儀による緻密な弾道計算。それらが完璧に組み合わさった近代砲撃の威力が、前線の防衛線を文字通り粉砕していた。
地平線付近で、小さな白い煙が再び立ち上る。
俺は速やかに魔道式複合懐中時計へ目を移した。
……十七、十八。
――ズゥン……。
十八秒後、地響きに似た重低音が遅れて鼓膜を叩いた。
(……白煙が見えてから、音がここに届くまで十八秒。……敵の野砲兵部隊はここから約六キロ先か)
ここからでは敵砲の正確な仰角までは判別できないが、狙われているのは四キロ先の前線陣地だ。敵の新型陸戦砲の有効射程は二キロ、最大でも三キロ程度だろう。
つまり、上空に浮かぶこの気球に直接砲弾が当たることはない。距離的にも、この観測気球の位置は『完全に安全』だな。
――空の上にいる限りは、の話だが。
懸念すべきは地上だ。もし敵の遊撃隊がここまで回り込み、下で待機している観測班を攻撃してロープを切られでもしたら、この籠はどこへ流されるか分かったものではない。
(……よし!あと二、三発、弾着の間隔を記録したら降りよう)
俺は手早く数値を書き留めると、真鍮製の伝令筒を取り出し、降下の合図を記した紙を詰めて地上へ落とした。地上班がロープを巻き取り始め、籠がじわじわと高度を下げていく。
その最中、同じ籠に乗る少佐が、地平線の土煙を見つめたまま、俺の限界を試すように硬い声で語りかけてきた。
「大尉。上空から見て、敵新型陸戦砲の鹵獲は可能だと思いますか」
「少佐。可能か不可能かで言えば可能ですが……費用対効果が悪すぎます」
教導大隊にも陸戦砲は四門ある。あれを前線陣地に合流させて遅延防御の時間を稼ぎ、その隙に残りの全部隊を大きく迂回させ、敵の砲兵部隊へ死に物狂いで突入させる。
理屈の上ではそれが唯一の鹵獲の手順だ。だが、そんなものは机上の空論にすぎない。失敗する可能性が極めて高いし、万が一成功したとしても、教導大隊は文字通り全滅することになる。
「こんな場所で俺の盾を、うしな……。少佐、教導大隊には、まだこれからの若い兵も多くおります。このような無謀な作戦で、未来ある若者の命を無駄にするわけにはいきません」
「大尉。ずいぶんと立派なことを言うようになりましたね」
「軍人として当然の判断です」
俺は籠の中で、手元の地図を素早く広げた。
幸いにも、この一帯の地形は頭に入っている。以前、地獄のような泥仕合を演じた――あの疎水沿いの戦場(第141話)から、そう遠くない場所だ。ここなら、この圧倒的な近代砲撃を前にしても、生存率を跳ね上げる作戦は組み立てられる。
作戦はある。しかし、それを実行するには前線の防衛部隊と合流し、彼らを動かさなくてはならない。
手っ取り早いのは「参謀本部」の名前を出すことだ。それなら前線部隊も協力せざるを得ないだろう。だが、それは諸刃の剣だ。一歩間違えれば、後から上層部に「中央の威光を傘に着た独断専行」と捉えられ、軍法会議にかけられかねない。
――どうするのが、最も合理的か。
俺は、懐中時計を軍服の衣嚢の奥へとねじ込んだ。
自分の責任を最小限に抑えつつ、前線の兵力を都合よく動かし、かつ敵の新型砲の射線から安全に逃れるための「最適解」を今すぐに出す必要がある。
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