第183話:世界大戦 その七十四
――東部戦線異状なし、報告すべき件なし。
先月の掘削区画から提出された月次報告書には、ただの一行、そう記されていた。
だが、俺はもう知っている。それが「本当に何も起きていない」という意味ではないことを。
技術教導特務大隊、試作実験兵舎の士官室。
重厚な鋳鉄の窓枠を揺らすように、外からは連日行われている新型蒸気機動兵器の運用試験の駆動音が、地鳴りのように響いてきていた。
対面に立つ少佐は、相変わらず仮面のような無表情を保っている。
「大尉。産業密偵の取り調べに伴う現場査察の過程で、連邦作業員の事故が組織的に隠蔽されている可能性が判明しました」
少佐は一枚の監査予備報告書を、俺の机の上に滑らせた。
「先週、宿舎の階段から足を踏み外して転落死したとされる連邦作業員についてですが、死因に明らかな不審点があり、軍警察は崩落事故に巻き込まれたか、あるいは他殺の疑いがあるとみて捜査を開始しました」
俺は差し出された中間報告書を速やかに精査した。
被害者の作業服から掘削区画の鉱物粉塵が検出されたこと、宿舎の階段からの転落では説明困難な損傷が確認されたこと、さらに事故当日の作業員配置表からその者の名前だけが不自然に消去されていたこと――偽装工作の証拠が並んでいた。
俺は痛むこめかみを指で押さえた。
帝国の技術者ならば、工具で指先を少し切った程度のささいな火傷や擦り傷であっても、その日のうちに日報へ記載する。教導大隊の試作試験でも、機材の微小な金属疲労や軽微な怪我は、その日のうちに報告が上がってくるのが正常だ。
だが、環山連邦からの報告書には、ここ数ヶ月間、事故や不具合が一切記載されていない。
事故を起こせば、その区画全体の特別配給と手紙の優先送達権が『三ヶ月間全剥奪』される。連帯責任制度は、他班の妨害工作を互いに監視させる目的には機能した。
その反面、「身内の過失や不可抗力の事故」に対しては、全員で完璧に口を割らない「無敵の隠蔽談合」を結成させてしまったのだ。
「少佐。これは直ちに対応しなければなりません」
「ええ、大尉。事故にしろ他殺にしろ、死者を冒涜するわけにはいきませんからね」
「いや、死者の尊厳などどうでも……。そ、その通りです。死者の冥福を祈るのと同時に、付け加えるなら『提出される工程表の数字が完全に信用できなくなる』ことも極めて深刻な問題です」
少佐が静かに見つめてくるが、俺は構わず言葉を続けた。
事故が起きたとするなら、その原因は作業員の不注意なのか、地盤調査の不備による落盤なのか、あるいは機械の不正改造による過負荷なのか。
正確な現場の状況を把握できないまま工事が進めば、三年後に完成するはずのこの巨大工廠都市が、本当に予定通り三年で完成するのか、あるいは水面下でとっくに数か月分の重大な遅れを抱えているのか、誰にも分からなくなってしまう。
教導大隊は新型車両の運用試験だけで手一杯だ。人員を割く余裕などどこにもない。ならば、帝都の特別監察室から追加で人員を呼び、各区画に安全監督官を常駐させて日報を直接付けさせるか?
……いや、連邦の作業員はすでに三千名を超えている。区画全体を隈なく監視するのは物理的に不可能だ。それに、今度はその監督官たちの宿舎や食事の手配まで発生し、俺の仕事が増えるだけだ。
(……監視の目を増やす、という発想自体が、もう間違っているのかもしれない)
これまでの制度は、すべて「事故が無いこと」を評価してきた。だからこそ、事故そのものを隠すという、最悪の選択肢が生まれた。ならば、評価の対象を変えればいい。
「少佐。『事故が無かった班』を評価する制度は直ちに廃止し、『事故や不具合を、発生から一定時間以内に自主的に報告した班と個人』を評価する制度に変更します」
軽微な事故であっても、発生から半日以内に自己申告した場合、配給の削減は免除し、さらに迅速な修繕や治療対応を軍の予算で最優先で行う。逆に、後から隠蔽が発覚した場合は、これまで通り区画全体へ重い連帯罰を科す。
「隠せば得をする」構造を、「先に自首した方が圧倒的に得をする」構造へと、根本から反転させるのだ。
「大尉。それでは、特別対応や手厚い治療を目当てに、些細な怪我をわざと作り出す者が出てくるのではありませんか?」
「構いません、少佐。工期さえ遅れなければ、そんなものは何の問題もありません」
軽い擦り傷や打撲程度の“自作自演”であれば想定の範囲内だ。それよりも、大怪我や死者が闇に葬られ、工程そのものが腐っていくことの方が遥かに恐ろしい。
俺は書類の余白に、新しい制度の骨子を猛烈な勢いで書きなぐった。
「さらに、帝都生命相互会社の支店を、この新都市の商業区画に即座に開設させます。そして福利厚生の名目で、全作業員を『積立式災害傷害保険』に強制加入させます」
「……保険会社、ですか?」
「ええ。連邦の民間会社が支払う給与から天引きする積立式です。無事に役務期間を終えて帰国する際には、積立金に配当を乗せてまとまった現金として受け取れる。作業員たちにとっても悪い話ではない」
これならば、事故を隠す理由そのものが薄れていく。正直に申告した方が、保険金という形で確実に金が手に入るのだから。
しかも、虚偽の申告や不自然な事故が無いかどうかは、保険会社が自らの利益を守るために勝手に調査してくれる。 俺や教導大隊の人手を一切割く必要がない。
「なお、担当の営業員には若い女性を配属させるよう要請するつもりです」
「……大尉。それは何か特別な意図でも?」
「深い意味はありません、少佐。ただ、作業員の大半が男性である以上、女性の担当者の方が何かと相談しやすいだろうという、現場への配慮です」
少佐はくっくっと肩を揺らして笑った。
「相変わらず、都合の良い言い訳がお上手ですね」
――二週間後。
街の商業区画に、綺麗に塗装された「帝都生命相互会社・東部新都市支店」の看板が掲げられた。
保険会社から見れば数千人の新規顧客が一気に増えるのだ、こちらの「若い女性営業員を配属してほしい」という要望もあっさりと受け入れられたようだ。
(それにしても、上申書提出から連邦との調整までが、事前に準備をしていたかのように速すぎる。深く追求するつもりはないが、参謀本部はどんな圧力を掛けたのだ……)
これで、隠されていた現場の軽微な事故や不具合も自発的に報告されるようになるはずだ。しばらくすれば作業員の安全意識も改善され、提出される安全日報を「巨大工廠都市の正確な工程表」として信用できるようになる。
三年という約束された期限が本当に守られるものなのかどうかはまだ分からないが、少なくとも俺の「安全で快適な保身生活」は守られたのだ。
俺が満足げに冷えた果汁を飲んでいると、士官室の扉が勢いよく開いた。
設計通りに壊れていく不具合を歓迎するような、一点の曇りもない純粋な笑顔を浮かべた少佐だった。
「大尉。東部最前線への即時出頭命令が出ました」
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