第176話:世界大戦 その六十七
帝国東部国境地帯、第百二十六前哨陣地。
陣地に足を踏み入れて最初に目についたのは、あの『蒸気機関式無限軌道大型野戦給食車』だった。
俺は参謀本部から提示された候補区画の中から、最も安全な場所を選んだはずだった。
当然、外部に見せたくない蒸気機関関連の最新兵器など配備されていないと踏んでいたのだが……まさかこんな最前線に装甲給食車が配備されているとは。帝国も、この程度の技術なら開示しても構わないと判断したということか。
(事前に入手していれば、駅からここまで来るのに馬車ではなく、俺の蒸気機関装甲車を使えたのに)
俺は西側諸国の観戦武官たちを引き連れ、陣地の司令部へと向かった。
最前線を預かる現場の指揮官からすれば、他国の軍人を連れてきた俺のような参謀本部の人間など煙たい存在でしかないだろう。だが、ここで先ほどの葡萄が効いてくる。
給食車の配備は予想外だったが、殺伐とした前線にまともな甘味があるはずもない。これは決して賄賂ではない。「実験農場で栽培された特別な葡萄の現地試食実験に協力してもらうだけ」という体裁で、手土産として届けることにした。
一通りの挨拶を済ませ、葡萄を指令室へ搬入させていると、同行していた少佐とこの部隊の指揮官が何やら密談を交わしていた。そして非常に嫌なことに、少佐が不気味に目を細めて笑っている。
(……とてつもなく嫌な予感がする。あの男が楽しそうな顔をしている時は、決まって俺が厄介事に巻き込まれている時だ)
「大尉。少々危険かもしれませんね。指揮官殿は、この先の安全を保障できないと言っています」
俺は少佐から渡された最新の戦闘記録を受け取り、速やかに目を走らせた。
二日前の偵察報告では、この一帯に存在する敵は小規模な前衛部隊のみ。帝国軍の主要砲兵陣地からも距離があり、敵がこちらへ本格的な攻撃を仕掛ける合理的理由も存在しないはずだった。
だからこそ、この場所を選んだのだ。絶対に安全で、なおかつ後方砲撃の見栄えが良い。
観戦武官たちに「帝国軍は圧倒的な火力を維持している」と見せつけるには、これ以上ない特等席だった。……だが、現実の戦場は数日前の報告書に従って動いてくれるほど親切ではない。
前方に広がる泥煙の向こう。本来なら存在するはずのない数の人影が動いているのが見えた。
次の瞬間――
――ファン、ホォォォーーーーン……!
獣の咆哮にも似た狂暴な音が響き渡る。
鼓膜ではなく脳の芯を直接揺さぶるような、不快な魔導ラッパ音。俺は即座に敵の「砲撃」を確信した。直後、今度は帝国軍の猛烈な反撃砲撃による凄まじい地鳴りが、大気を激しく打ち震わせた。
指令部の隅で小さくなり、完璧な防御姿勢を取っていた俺に、青ざめた観戦武官がしがみつくように尋ねてきた。
「大尉殿! ほ、本当に安全なのですか!?」
俺は何事もなかったかのようにすっと立ち上がり、埃を払いながら淡々と答えた。
「安全です」
――昨日までは、な。
(思った以上に赤旗国軍の戦力が多い。俺の想定より前線の状況が悪化している。このままでは観戦武官どころか、俺自身の命が危ない……一刻も早く第四要塞へ避難しなければ)
「観戦武官殿。ご覧のように敵遊撃部隊の接近を許しましたが、脅威は即座に排除されました。ここで本格的な白兵戦に発展する可能性は極めて低いですが、現場の指揮系統に余計な負担をかけないため、我々は“予定通り”第四要塞まで移動します」
俺自身の安全のためではなく、現場の指揮権を尊重する配慮。そしてそれは、あくまで当初から決められていた予定に従っただけ――完璧な名目だった。
帝国東部、第四超大型星型要塞。
外賓控室では、鉄道部の士官が西側諸国の観戦武官たちへ悠々と説明を行っている。
技術的な解説なら俺でもできるが、運用の詳細に関しては現場の者に任せた方が確実だ。余計な口を滑らせて後で問題になるのを防ぎ、責任の所在を明確にしておくという意味でも、これが正解だった。
それにしても、先ほど装甲列車内で試飲させた「特別な葡萄酒」は、想像以上の効果を発揮しているようだ。
現代農業工学という名の暴力によって、この世界の植物としての生存限界を突破させた「糖度十四度」の極上葡萄。
現代の品種であれば、決して珍しい数字ではない。だが、この世界で栽培されている葡萄は、強い酸味を持つものがほとんどだ。そのため果物をそのまま食べて甘いということ自体が贅沢品なのだ。
そんな贅沢品を使い、雑味を徹底的に削ぎ落とし、葡萄本来の洗練された甘みと瑞々しい果実味を保ったまま、アルコール度数七度の琥珀色の液体へと昇華させた逸品だ。
しかもこれは、皇帝陛下へ献上される最高級品。どんなに金を積もうが市場には出回らない。もっとも、俺が直接管理している実験農場産なので、特別監察室の権限でいくらでも横流し……いや、手配できるのだが。
戦後、『西部諸国横断鉄道』が開通すれば、この過剰なまでに美味い『葡萄や葡萄酒』が迅速な鉄道輸送によって西部の宮殿へと大量に届けられることになる。西側の王侯貴族や大富豪が、この味覚の暴力に大金を惜しむはずがない。
観戦武官とは、即ち外交官でもある。
帝国は単に軍事的に強いだけでなく、「戦後に莫大な商業利益をもたらす圧倒的な富を有している」という事実を、彼らの胃袋と脳に直接叩き込んでやるのだ。
初日の視察が終わり、俺は外賓控室を後にした。
控室の重厚な壁の裏側には、要塞設計の段階で設けた観察・盗聴用の隠し通路が存在する。あとは参謀本部が用意した特別な部隊に任せればいい。
――翌日。
士官室で、少佐から「観戦武官団・動向分析報告書」を受け取った。
俺は、西側諸国の観戦武官たちが交わした生々しい会話記録に目を落とした。
「……信じがたい。あの前線の混乱すら、彼らにとっては『想定内の日常』に過ぎないというのか」
「見たか、あの給食車や装甲列車の補給維持能力を。帝国軍の強さは本物だ。敗北などあり得ん」
彼らの胃袋と頭脳は、すでに帝国の規格外な物量と技術によって支配されつつあった。だが、彼らが真に恐れ、そして惹きつけられていたのは「帝国の強さ」そのものだけではない。
「だが、これほどの軍隊を以てしても、前線が膠着しているのは何故だ?」
「赤旗国軍の常軌を逸した『物量』と泥沼の遊撃戦術のせいだろう。帝国は勝つ……だが、この消耗戦が長引けば、帝国は疲弊する」
「あの葡萄と葡萄酒の技術は本物だ。我が国は、あの技術を直ぐに輸入したい」
まずい。俺が横流し……いや、手配した葡萄酒のことが報告書に書かれている。
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