第175話:世界大戦 その六十六
装甲列車、特別貴賓車両。
列車が最前線に向けて車輪を軋ませるたび、鉄板の隙間から五感を揺さぶる戦場の気配が吹き込んでくる。
遥か十キロメートル後方から放たれた列車砲の巨弾が、空気を引き裂く怪音を立てて頭上を通過し、前方数キロの敵陣地へと容赦なく着弾する。大地を揺るがす爆風が、にわか仕立ての装甲車体をわずかに震わせた。
観戦武官たちは、帝国が用意した西部式の貴賓席に座りながら、装甲の隙間から外を覗き込んでいる。その視線は好奇心と警戒心の中間にあり、帝国の“見せたい戦場”だけを見せられていることに気付いていない。
「大尉殿。この列車は安全なのですか、本当に前線まで行くのですか?」
武官の声は、装甲板に反響してわずかに歪んでいた。おそらく、実戦を知らない、または経験の少ない官僚型の軍人なのだろう。
時速六十キロで疾走するこの鋼鉄の塊に、帝国の防衛網を潜り抜けた程度の少数遊撃隊が手を出せるはずもない。
一方、恐怖に怯えることもなく、帝国の圧倒的な輸送能力と連続砲撃を冷ややかに観察している者は、前線での死線をくぐってきた将校たちだ。相手の所属を測るには格好の場だった。
「観戦武官殿。ご安心ください、補給ルートの安全は確保されています。ただ前線は、砲弾が飛んできますので、こちらが指定した区画へは立入りしないでください」
俺は淡々と、至極まっとうな口調で答えた。
だが実のところ、前線も安全そのものだった。俺自身が絶対に負傷しないよう安全な区画を選び抜き、その上で「後方からの予備砲撃が最も映える場所」をわざわざ視察所に設定したからだ。すべては綿密に計算された演出に過ぎない。
恐怖と興奮で顔を紅潮させる武官たちの視線をいなしながら、俺は冷やした銅の箱を卓上に置いた。
「硝煙で喉が渇いたでしょう。帝国産の特別な葡萄です。どうぞ」
蓋を開け、差し出された大粒の果実を、武官が恐る恐る口へと運ぶ。その瞬間、彼の目が限界まで見開かれた。葡萄を一粒、口に運ぶだけで、暴力的なまでの甘味が舌を蹂躙する。
果汁は濃厚で粘り気すら感じさせ、舌の上に重く広がる。その甘さは、もはや果物というより、味覚そのものを直接殴りつけてくるような代物だった。
「……な、なんだこの甘さは。こんな葡萄が存在するのか!?」
「驚いたな……。酸味の棘がどこにもない」
「それに、冷えている……。どうやってこの前線で冷やしたのだ?」
西側諸国にも、硝石と水を用いた冷却技術自体はある。だが、貴重な火薬の原料である硝石を「果物を冷やすためだけ」に浪費するなど、本国の王侯貴族でも正気を疑う行為だ。
(もちろん、この硝石も俺が参謀本部から強引に引き出したものなのだが)
どちらにせよ、西側諸国の観戦武官たちは、これほど甘い葡萄を食べたことなどないだろう。
彼らの常識において、葡萄とは強い酸味を持つ果実であり、生食よりも醸造や保存食への加工を前提とした作物だ。一粒食べただけで甘味に圧倒されるような代物など、想像の枠外にある。
だが、この異常な甘さは偶然の産物ではない。
実が付き始めた段階で窒素肥料を断ち、収穫の二週間前からは灌水も停止する。植物が枯死しないぎりぎりまで追い込み、生存のために果実へ糖分を蓄積させ、植物に「死の恐怖」を与え、その生存本能を利用して糖度を引き上げるのだ。
さらに株の周囲には、太陽光を可能な限り乱反射させるための白塗りのコンクリート板まで配置し、葉の裏側にまで光を送り込ませて光合成を促進する。昼の間、葡萄の樹はひたすら糖分を作り続ける。
当然、それだけでは終わらせない。
一房へ栄養を集中させるため、他の房は容赦なく切り落とす「摘房」を行い、残された本命の房も粒を肥大させるために「摘粒」を徹底する。必要なものだけを残し、それ以外は切り捨てる。
栄養の流れを一本に絞り込み、選ばれた一房だけに異常な量の糖分を蓄積させる。
極めつけは「環状剥皮」だ。幹の樹皮を一周だけ剥ぎ取る。根から吸い上げた水分は葉へ運ばれる一方、葉で作られた糖分が根へ戻る経路は断たれる。逃げ道を失った糖分は、そのまま果実へ蓄積されていく。
陽が落ちれば、今度は夜間の管理が始まる。
支柱を組み、油を塗った分厚い麻布で作った簡易温室によって葡萄を外気から隔離する。
その傍らでは、ロケットストーブで温風を送り込み、沸騰した湯から発生する大量の蒸気で、温度と湿度を人為的に制御する。
現代農業工学という名の“インチキ”を総動員し、植物と土壌の寿命を削りながら、文字通り強制労働を課して糖分を絞り出す。技術と管理と制度によって生み出された、人工的な富なのだ。
しかも、これは特別監察室が直接管理する実験農場で栽培されたものだ。仮に種を持ち帰られたとしても、同じ果実は作れない。
どの時期に肥料と水を断つのか、どの房を残し、どの粒を切り落とすのか、どの程度の温度と湿度を維持するのか。
それらすべてを組み合わせた「栽培体系」そのものが、帝国の技術なのだ。そして今、その技術の結晶を、帝国は西側諸国の軍人たちに惜しげもなく食わせている。
「……これは、帝国の市場でも手に入るのですか?」
武官の一人が、葡萄を眺めながら尋ねた。
「時期によりますね。ですが、鉄道が完成すれば、今よりずっと簡単に届くようになるでしょう」
その言葉を聞いた武官は、何かを考えるように黙り込んだ。
――装甲列車は、前線へ向けて速度を上げ進んでいる。
視認できる距離に、前哨陣地の無骨な影が見え始めていた。
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