第173話:世界大戦 その六十四
二か月前、帝国の西に位置する『豊浦王国』で執り行われた『帝国鉄道株式会社』の発足式、および『西部諸国横断鉄道』の公式発表会。
それに伴う新型旅客用蒸気機関車の公式試乗会は、客観的に見て大成功に終わったと言って良いだろう。
華やかに着飾った西側諸国の王侯貴族や大富豪たちは、帝国が提示した「鉄路がもたらす薔薇色の未来」に目を眩ませ、競うようにして莫大な投資資金を帝国へと放り込んできた。
さらに、懸念されていた帝国の慢性的な物資不足についても、経済官僚たちは見事な手腕を発揮した。
帝国が『水産国』や『資源国』といった南方諸国へ輸出している食料や工業製品。その対価として、彼らは紙切れの現金を要求しなかった。
代わりに「現物物資」を直接引き渡させる、事実上の物々交換形式の貿易へと一斉に切り替えたのだ。
金はある。戦争に必要な物資も、この力技の経済戦術によって確保できている。そして何より、それらを必要な場所へと送り届けるための、強固な鉄路というルートもある。
理論上、帝国の兵站は完璧に回っているはずだった。
だが、どれほど精緻に組み立てられた方程式にも、絶対に解決できない致命的な不具合が存在した。
――人的資源。
資金はある。物資もある。届けるルートもある。しかし、戦線ですり潰され消えていく「人間の数」だけは、帝都中央銀行の印刷機を使っても、他国からの物資を使っても、どうすることもできないのだ。
「大尉。顔色が悪いですね、風邪ですか?」
装甲馬車の向かいの席に座る少佐が窓から農地を眺めながら俺に語り掛けてきた。
「少佐。俺の体調不良は、帝都に戻ると治ります」
――帝国東部、最前線に直結する巨大な兵站拠点。
鉄煙と硝煙、そして泥と血の臭いが混ざり合う最悪の空気の中で、俺は再び、あの危険極まりない東部前線へと引き戻されていた。
俺個人の願望としては、あの安全で、飯が美味くて、命の危険が一切ない西部諸国で、優雅に蒸気機関車の試乗会を管理する任務をずっと継続したかった。
しかし、参謀本部は、それほど甘くはなかったらしい。西部の設営が終わった瞬間、俺への辞令は「東部兵站拠点の急速強化」という、死刑宣告に等しいものだった。
東部戦線は、一時期、帝国軍の猛攻によって国境近くまで敵を押し戻すことに成功していた。それも過去の栄光だ。現在は『赤旗国』が誇る底なしの物量に押され少しずつ、だが確実に後退を余儀なくされていた。
純粋な兵器の性能や、将兵の錬度だけで言えば、明らかに帝国の方が上だ。圧倒的な火力と射程を誇る大型列車砲や自走砲が隙間なく配置されている。
防衛線には複合式大型機関銃による地獄のような十字砲火の網が張られている。突撃してくる敵兵を、文字通り肉片へと変える火力網がそこにはあった。
だが、赤旗国はそんな近代兵器の効率的な殺戮を、単純な「人間の引き算」で凌駕してきた。
機関銃が過熱して銃身を交換する数分の隙に、十人、百人、千人の生身の人間を突撃させて数で押し潰す。数の暴力の前に、帝国の洗練された防衛線は摩耗し、決壊しかけていた。
国家総力戦という狂気に陥った敵を止める方法は、歴史上、二つしか存在しない。
一つは、敵の指導者が死んで政権が交代し、戦争継続の意志が挫折すること。もう一つは、敵の兵站(物流と生産力)が物理的に崩壊し、弾薬も糧食も届かなくなることだ。
参謀本部が優秀であることは認めざるを得ない。おそらく、裏では敵指導者の暗殺計画が何度も実行されているのだろう。
だが、当然ながら『赤旗国』の連中も無能ではない。彼らの指導者には、数人の完璧な「影武者」が用意されており、常に偽の移動予定を流して居場所を特定されないようにしている。
暗殺による政権交代など、現実的には不可能なのだ。
ならば後者、敵の「兵站限界」がいつ訪れるのかと言えば、俺には全く読めないのだ。自国民がどれだけ餓死しようとも、どれだけ弾薬が尽きかけようとも、一個のパンと最後の一発の銃弾を前線に届けるシステムが稼働している。
絶え間なく到着する負傷兵の群れと、次々に前線へと送り出される物資の山を見つめながら、俺は考えていた。
俺が今、行っている東部兵站拠点の強化任務。これは、帝国を勝利に導くための建設的な一歩などではない。
ただ単に、帝国という巨大な怪物が、『赤旗国』という大蛇に飲み込まれて敗北するまでの時間を、ほんの少しだけ「先延ばし」にしているだけではないのか。
そんな暗い虚無感に襲われながらも、俺は泥にまみれた兵站拠点の農地を視察し、前線の兵食を支えるジャガイモの生育状況を確認した。それから、鉄骨と天幕で組まれただけの薄暗い仮設指揮所へと戻った。
突然、少佐が、西部諸国の新聞を渡してきた。
「大尉。西部諸国から『観戦武官』が派遣されます。帝国も受け入れるそうですよ」
「観戦武官、ですか……」
観戦武官。つまり、他国の戦争を合法的に、かつ間近で観察・記録するために派遣される軍人たちのことだ。俺は新聞を手に取り、乱雑な活字に目を走らせた。
これまで、帝国には蒸気機関をはじめとする、国家機密の塊のような最新鋭兵器が溢れていた。当然、仮想敵でもある西部諸国の軍人を前線に招き入れるなど、あり得ない話だった。
だが、それも二か月前の『豊浦王国』での一件で前提が変わったのだろう。帝国は自ら、世界最先端の技術である新型蒸気機関車と鉄道網の情報を公開したのだ。
ならば、今さら小出しに情報を隠す意味もない。情報解禁として、彼らを受け入れる土壌が整ったということだ。
「少佐。それは別に良いのではないですか。西部諸国としても、莫大な投資を行った帝国との信頼関係を強固なものにしたいのでしょう。お互いの腹の探り合いとしては、至極真っ当な外交手段ですよ」
俺は新聞を折りたたみ、机の隅へと追い払った。
(まぁ、良い。名目はどうであれ、観戦武官の主な任務なんて、中身はただの外交だ。ならば、事務方の俺が、彼らを直接前線へ連れて行く必要もなければ、外交官に付き合うわけでもない。俺には関係のない話だ)
しかし、目の前の少佐の口元が、酷く不吉な形に吊り上がるのを見た瞬間、俺の脳裏に最悪の展開を浮かび上がらせた。
「大尉。参謀本部から新たな下命です。観戦武官を前線へ案内せよ。とのことです」
「なんで、事務方の俺が!?」
思わず、裏返った大声が指揮所に響いた。
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