第167話:世界大戦 その五十八
帝国は、この比帆諸島戦役において、確かに目に見える成果を積み上げていた。
今日の戦闘は予定通りの勝利で終わり、明日もまた同じ構造のなかで勝利を得るだろう。
明後日も、来週も、そして一カ月後でさえ、戦況は帝国側へ傾き続けるはずだ。少なくとも、兵站の流れと補給線の維持がこのまま健全に機能している限りは。
しかし、視座を『帝国東部』へと移せば、話は少しずつ変わり始める。
広大な東部前線における補給物資の調達網は、季節の過酷な変動に容赦なく影響され、前線の消耗は日を追うごとに累積していく。そして、膠着を破ろうとする敵側もまた、時間の経過とともに新たな戦術や兵器を試みる余地を得てしまうのだ。
半年後、あるいは一年後。
戦局が長期化の泥沼に囚われたとき、帝国の国力そのものがどれほど戦争の巨大な負荷を吸収し続けられるかという、国家制度そのものの耐久性が問われる段階へ入るだろう。
それでも、帝国軍という巨大な組織は、盲目的に勝利の道筋を探し続ける。
戦場の地形が変わろうと、敵の戦略がどれほど変質しようとも、帝国は“勝ち続けるための仕組み”をその都度再構築し、必要とあらば戦争そのものの形を都合よく組み替えてでも、自らに有利な勝利の条件を確保しようとするはずだ。
その姿勢は、燃え盛るような戦意というよりも、むしろ冷徹な制度の慣性に近い。
勝つことそのものが目的なのではない。“勝利を維持する構造を、ただひたすらに運転し続けること”こそが、帝国の本質なのだ。
――比帆諸島帝国領地、海軍庁舎士官室。
そんな帝国の強固なシステムをあざ笑うかのように、士官室の机の上には、各国の最新の外国新聞がうず高く積み上げられていた。
なかでも、『霧宮王国』の大手新聞社が発行した紙面の一面は、不気味なほど全て同じ見出しで埋め尽くされていた。
帝国が、『比帆諸島連邦』と共に亡命政府『自由比帆諸島』を壊滅させた軍事作戦を公的に国際法違反として激しく非難し、「この人道に対する犯罪の責任者は、処罰を免れない(戦犯裁判を行う)」と強く警告する声明を出したのだ。
「大尉。今のところ、周辺諸国で『自由比帆諸島』を正式に国家として認めているのは、『霧宮王国』だけのようですね」
俺の正面に座る少佐は、感情の読めない声音で呟いた。その視線はプロパガンダに満ちた新聞ではなく、海軍情報部が冷徹に精査した最新の資料へと落とされている。
「少佐。霧宮の出す声明は、西側諸国に対して絶大な影響力を持ちます」
『霧宮王国』は、地政学的に重要な貿易拠点に位置しているだけでなく、西側諸国にとって不可欠な小麦や鉄製品の巨大な輸出元でもある。彼らが経済の蛇口をひねれば、西側の小国など一瞬で干上がる。
そして何より『蒸気ポンプ』の存在だ。
帝国はこれまで、周辺諸国へのODA(政府開発援助)の一環として、画期的な『蒸気ポンプ』の提供を行ってきた。
だが、技術の独占と優位性を保つため、他国への一般販売はあえて旧型のみに制限し、新型の流通には厳しい枠を嵌めていたのだ。
ところが『霧宮王国』は、帝国を非難する声明と同時に、自国製の最新型『蒸気ポンプ』の一般販売を全世界に向けて開始すると発表したのだ。
この『蒸気ポンプ』さえあれば、西側諸国の生命線でありながら、出水によって打ち捨てられていた多くの水没鉱山を再開発し、莫大な富を自国で掘り出すことが可能になる。
西側諸国の視点に立てば、答えは火を見るより明らかだった。
いくつもの国境線を越え、不確定な陸路で延々と輸送されてくる規制まみれの帝国製『蒸気ポンプ』と、海路を使って港から直接、迅速に輸入できる霧宮製の制限なき『蒸気ポンプ』。
どちらが早く手に入り、どちらが自国に利益をもたらすのかなど、言うまでもない。
さらに言えば、その恩恵は鉱山資源を持つ国々だけには留まらなかった。
たとえ鉱山を持たない内陸の貧しい国家であっても、この『蒸気ポンプ』さえあれば、これまでの技術では高低差のせいでどうしても水を引くことができなかった高台の農地に直接、あるいは遠方のため池や貯水池にまで、大量の水を自在に運ぶことが可能となるのだ。
他にも、堅牢な城塞や巨大な都市の近代的な貯水設備、あるいは毎年のように国土を脅かす河川の治水対策まで、その用途は無限に存在した。
水という生命線を握る内陸国において、もはや必要なのは帝国が自慢する「最高性能を誇る至高の一台」などではない。
「そこそこの性能のポンプを、大量に、そして何よりも早く、今すぐ入手できること」のほうが、国家の死活問題として遥かに重要になり得るのだ。
帝国の技術による囲い込み(ODA)という結界が、霧宮の市場開放によって文字通り木っ端微塵に粉砕されようとしていた。
「少佐。問題は、霧宮がどの程度まで技術を開示するのかです」
俺の言葉に、少佐は資料を捲る手を止めた。
「分離凝縮器付き蒸気ポンプまで販売する可能性があると思いますか?」
現在、帝国が輸出している一般的な大気圧(真空)を利用した吸い上げ式の『蒸気ポンプ』では、物理的な限界として、どうしても約十メートルまでしか水を垂直に引き上げることができない。
これ以上の高さになると、大気圧よりも水の重さ(水柱の重量)のほうが勝って釣り合ってしまうため、物理的にそれ以上の上層へ水を吸い上げることは不可能なのだ。
これは技術の優劣の問題ではなく、この世界の根底を支配する純粋な『科学的知識(物理法則)』である。
つまり、十メートル以上の高さにまで水を強引に送り届けるためには、吸い上げるのではなく、ポンプを用いて「下から強大な圧力をかけて、水を力ずくで押し上げる」という全く異なる方法が必要不可欠になる。
そしてこの高圧制御の理論と、シリンダーの熱効率を劇的に高める『分離凝縮器』の構造を知らなければ、逆立ちしたってそんな化け物じみたポンプは製造できない。
現在、この『分離凝縮器付き蒸気ポンプ』は、帝国内の最重要鉱山でしか運用されていない最高機密だった。(第59話)
理由は極めて単純。帝国が圧倒的な技術力で世界の頂点に君臨し続ける限り、他国は生殺与奪の権を握る帝国に依存し、頭を下げ続けるしか選択肢がないからだ。
帝国はこの技術の独占を盾に、自国を「他国からは決して侵略不可能な絶対的大国」として位置づけ、その上で周辺国全てを『相互依存の関係』にする。
どの国も他国なしでは立ち行かず、他国もまた彼らを顧客とする。この強固な相互依存の構造を将来的に作り出し、戦争を行うための費用を物理的に支払えない水準まで強制的に引き上げる。
だが、霧宮王国が、その鍵である『分離凝縮器』の技術を世界に安価で公開すれば、その繊細な均衡は一瞬で崩壊する。
制限なき高度な技術を手に入れた周辺国たちの国力は、爆発的に向上するだろう。そして国力の増強は、例外なく「軍事力の急速な強化」という牙となって現れる。
牙を得た小国たちは、やがて肥大化した野心を抑えきれなくなるはずだ。国境付近での些細な、あるいは偶発的な衝突から、連鎖的に複数の国家を巻き込んだ、世界規模の大戦乱へと容易に発展しかねない。
何よりも恐ろしいのは、世界中で「戦争の泥沼化」を望む霧宮ならば、その引き金となる『偶発的な戦闘』そのものを、自らの手で、最も効果的な時期で意図的に発生させることが出来るだろう、ということだった。
頭の中で世界破滅の物語の中から、俺だけ逃げ出す方法を考えていた、その時だった。
コンコン、と士官室の扉が遠慮がちに叩かれた。
現れたのは、海軍の広報部から派遣されてきている見覚えのある広報官だった。彼は俺の姿を認めるなり目を輝かせて敬礼した。
「失礼します! 霧宮対策のプロパガンダ取材の件で、広報部よりお迎えに上がりました、街道大尉!」
俺の嫌な予感は、いつだって恐ろしいほど正確に現実となるのだった。
読んでくださり、ありがとうございました。
投降順番を間違えて先のエピソードを投稿してしまいました。無かったことにしてください。




