第165話:世界大戦 その五十六
比帆諸島帝国領地、海軍庁舎士官室。
窓外に広がる比帆諸島の海域は、どんよりとした曇天の下で薄い金属板のように沈んだ色を保ち、ゆるやかに揺れていた。遠くで崩れた波は細い白線となり、ほどけるように散っては、くすんだ水面へ静かに沈み込んでいく。
そこに生命の気配は乏しく、色彩の変化もほとんどない。ただ風と水だけが淡々と世界の境界線の役割を果たしていた。
俺は今、あの耳を劈く砲声の反響も、硝煙の鼻を刺すような臭いも一切届かない、手入れの行き届いた安全な室内にいた。
手元の磁器皿の上で静かに湯気を立てる珈琲は、戦場の不衛生な泥水とは無縁の“温度と香味を提供する装置”として完璧に機能していた。
その士官室の重厚な扉を無言で開けた少佐が、足音も立てずゆっくりと机へ近づき、一枚の冷淡な機密書類を机の上へと滑らせてきた。
「大尉。いつまで、この平和が続くと思います?」
……相変わらず嫌なこと言う。俺が久しぶりに過酷な任務から解放され、傷ついた心と体を休ませているというのに、第一声が、現実に呼び戻す言葉だとは、この男は、俺に対する気遣いが皆無だ。
「少佐。平和の定義は集団が決めます。国家が平和だと宣言し、人々がそれを受け入れるなら、その国家は平和です」
その定義で言うならば、比帆諸島の両国は、間もなく平和になるだろう。
あの忌々しい警報音が室内に鳴り響き、船体が直撃の衝撃で大きく揺れ、俺が負傷したあの日から、すでに二か月の時が流れている。
帝国、『比帆諸島共和国』、そして『合衆国』の三か国による秘密裏の外相会談が締結されて以降、この海域の情勢は文字通り劇的に変化した。
あれほど連日のように民間商船の航路を脅かしていた武装海賊の被害は、ここ数週間で完全に激減、いまや皆無に等しい。
最新鋭の外輪船を並べた『合衆国艦隊』が、国際世論の非難を完全にかなぐり捨て、正当な報復という大義を掲げて、狂ったような規模の掃討・討伐作戦を継続した結果であった。
文字通り、海を荒らし回っていた海賊と呼ばれた集団は、その大半が『合衆国』の圧倒的な火力の前に肉片へと変えられ、海の底へと沈んでいったのだ。
北の海の安全が確保されたことに伴い、俺が責任者を務めていた帝国海軍臨時警備隊は、一週間前にすべての任務を完了し、正式に解散となった。
俺と教導大隊四百名は、今後訪れるであろう戦後処理のために、待機命令が発動されていた。
俺の机の上に置かれた少佐の書類は、偽装海賊――『赤旗国』正規兵の捕虜輸送計画だった。軍組織の一員である証拠として階級章や命令書など、物証は『合衆国』へ“適正価格で販売”したが、生身の人間は帝国軍が保護している。
人道的な国家である帝国は、捕えた捕虜を第三国に引き渡すことなどしないのだ。
「少佐。捕虜は、すべて帝国東部の後方キャンプへ輸送予定ですよね。何か問題が発生しましたか?」
俺の問いかけに対し、少佐はいつもの感情の抜け落ちた無表情のまま、細い指先で書類の最下部を指さした。
「大尉。『赤旗国』軍から脱走し、比帆諸島の住民に紛れ込んでいる者がいます」
報告によれば、合衆国艦隊の容赦のない殲滅作戦から命からがら生き延びた『赤旗国』軍の敗残兵――自称海賊たちの生き残りは、すでに組織としての戦闘能力を完全に失っていた。
彼らの多くは、身に纏っていた軍服を無残に脱ぎ捨て、武器をすべて泥の海へと投げ捨てて、比帆諸島の沿岸部や入り組んだ集落の一般住民の中に、文字通り「ただの難民」として紛れ込んでいるという。
戦う意思もなければ、抵抗するための武器すら持たない、飢えただけの人間たち。海賊として捕まれば即日死刑、軍人として捕まれば外交問題を引き起こす。今の彼らは、逃げるしか選択肢は残されていないのだ。
「少佐。いくら何でも、帝国軍が比帆諸島両国内で犯人捜しをするのは、無理がありますよ」
比帆諸島の司法が捜査・逮捕し、取り調べの結果、『赤旗国軍』兵だと判明すれば、帝国に引き渡す。比帆諸島両国が捕虜として扱えば、『赤旗国軍』との外交問題になる。引き渡しには応じるだろう。
「大尉。なんでも利用する、あなたなら施策を出せるはずです」
(……この男。ついに俺の能力や知識ではなく、性格と言いやがった。……まぁ、直ぐに思いつく俺も、どうかと思うが)
「少佐。軍には捜査権がありません。なので捜査しなければ良いのです」
初めに各島で地元警察と共に帝国軍が各村を訪問する。威圧ではない、ただ道案内を受けているだけだ。その際に、海賊なら即日死刑、帝国軍に出頭すれば強制送還されることなく捕虜として保護されると資料を配布する。
後は、警察庁舎か港で大人しく待っていればいい。すべてとは言わないが、ある程度は集まるだろう。そして、さらに加速させるため軍の備蓄食料を支援物資として村や協力者に提供するのだ。
「大尉。つまり地元住民に懸賞金を出して密告させるのですか?」
「少佐。難民を受け入れていた、貧しい村に人道的な支援をするだけです」
捕虜が出頭した後は、地元の新聞社に協力してもらい、海賊として死刑になった者と、捕虜として保護された者の記事を掲載すれば、より効果的になるだろう。
――数日後。
『比帆諸島共和国』最大大手の共和国新聞に、こんな記事が掲載された。
――敵国兵士にも差別なき慈愛、街道大尉、涙に暮れる元赤旗国兵を自ら支える。
記事には、ご丁寧に、俺が泣き崩れる捕虜を支える挿絵まである。
……完全な捏造である。
俺は、あの後、共和国に一歩たりとも入国していない。しかし、よく見ると小さな文字で、帝国海軍広報発表に基づく参考図と書いてある。
ならば、完全に嘘とは言えまい。俺は新聞を丸め、そのまま士官室の屑籠へ放り込んだ。
読んでくださり、ありがとうございました。




