第153話:世界大戦 その四十四
帝国東部、兵站拠点。
一万二千人の捕虜のうち、人道的な医療によって健康状態を完全に取り戻した者は、現時点で約五千名を超えている。
この調子なら、あと一か月もすればさらに数千人の捕虜が名目上「民間難民」へと変化し、この広大な東部前線の兵站を維持するための労務に従事することになる。
国家の都合で徴兵された彼らは、元を正せばありふれた一般市民であり、その内部には多様な生産技能を持っている。ならば、土木作業員ではなく、その技能を利用するのが、合理的であろう。
彼らの中から農業や畜産の確かな実務経験を持つ者を兵站拠点へと集め、即席の「官営農場」を立ち上げるのだ。
過酷な前線における兵士たちの食事の質は良いとは言えない。もちろん、栄養士の計算によって最低限の栄養素は考慮されているが、どうしても長期保存用の乾燥食が中心となり、新鮮な生野菜や肉類の配給は不足しがちなのだ。
成長が速い品種改良された野菜の苗や、卵を産む鶏、乳を出す乳牛を近隣の安全圏から大量に取り寄せ、すべて彼ら元農夫の難民たちに丸投げして管理させることにする。
「大尉。物資はともかく、彼らに支払う賃金はどうするのですか?」
少佐がいつものように俺の利害計算を試すように問いかけてきた。
「少佐。何も問題はありません。賃金は全て軍票です。そして兵站拠点には帝国の貨幣に両替するための銀行が無いのです」
本来、信用の裏付けを持たないただの印刷された紙きれに過ぎない軍票を市場へ大量に流し込めば、通貨価値は暴落して戦時インフレを引き起こす。
だが、ここは自由市場ではない。帝国軍が設計・構築した、完璧に閉鎖された『配給統制経済の檻』なのだ。
難民たちへの給与の支払いはもちろん、彼らが胃袋に収めるスープも、身に纏う布地も、闇市で取引される密造酒も、娯楽にいたるまで、すべての経済決済は軍票のみで行われる。――予定だ。
そして、その経済圏における唯一の通貨発行主は帝国軍であり、彼らに生活物資(商品)を供給・販売する唯一の独占企業もまた、帝国軍に他ならない。
難民たちが軍票を溜め込みすぎてデフレの兆候が見え始めたなら、その時は軍が彼らの作った自前のウサギの肉や工芸品を軍票で高値で買い上げてやり、市場の通貨流通量を操作すればいい。
――もっとも、このような外部の流通から完全に遮断された「閉じた経済」は、遠からず物理的な崩壊を迎えることになる。
これから戦線が前進し、ここ以外にも同じ仕様の兵站拠点がいくつも乱立し、全体の人口規模が膨れ上がるにつれて、兵站拠点内で生産される物資の総量は増え続ける。
戦時兵站としては極めて効率的な経済だ。だが、戦争が終わり兵站拠点が無くなった時に、彼らは初めて気が付くことになる。
この狂った経済が正常に成立していたのは、帝国軍が彼らにとっての「唯一の雇用主」であり、同時に「唯一の市場」として君臨しているからだ。
戦争が終われば、市場そのものが消滅する。その瞬間に、彼らが貯め込んできた大量の臨時軍票は、価値の裏付けを失い無価値な紙屑へと姿を変える。
もちろん大戦の終結後、崩壊した故郷の『赤旗国』への帰還を拒み、このまま帝国の民として第二の人生の生活を望む労働者に対しては、生活基盤を手厚く用意するつもりだ。
この東部戦線には、これまでの激しい戦禍によって完全に放棄された農地や、無人の街、補修が必要な軍施設が大量に存在しているのだ。戦後でも仕事は大量にある、その時は帝国の貨幣で給与を支払うことになる。
(――もっとも、その頃まで帝国が残っている保証など、どこにもない)
「少佐。軍票は通貨ではなく、この兵站拠点でのみ有効な労働引換券です」
俺が、そう言い放つと少佐は、手帳を開き何かを淡々と書き留めていた。
「大尉は、それが良いと判断したのですね。分かりました」
何とも引っかかる不気味な言い回しだが、少佐が何を考えているのかは、未だに分からない。気にするだけ無駄なので俺は考えないことにした。
――十日後。
巨大な黒煙を天高く上げながら、泥濘の彼方から巨大な蒸気輸送車が地鳴りを立ててやってきた。鋼鉄の無限軌道を軋ませながら、どれほど最悪な悪路であろうとも大量に、そして確実に物資を前線へと輸送する怪物だ。
「……また、新型か。参謀本部(陸軍)か、海軍か。どちらが開発したのかは分からないが帝国は兵器の機械化を急速に進めているようだ」
俺が、その漆黒の鉄塊を眺めていると、降りてきた男が不敵に笑った。
「街道大尉。頼まれていた乳牛五十頭、鶏二千羽を持ってきたぞ」
「はっ、大佐殿。ありがとうございます。これで前線にも新鮮な、たんぱく源を供給できます」
俺は、完璧な敬礼を捧げながらも、生存本能が告げる警告に焦っていた。
とっくに艦型試験池へ帰ったと思っていた、海軍の大佐殿が、なぜか未だに東部にいるのだ。最悪な予感しかしない。
「街道大尉。最新の新聞だ、暇なら、読んでみるといい」
大佐殿から手渡された、真新しい新聞の一面には、こう書かれていた。
――かつての英雄『最古参』が若き兵の指導のため前線へ復帰。
――新たな英雄「一閃」、雷神のごとく一撃で敵陣突破。
(……誰だ?俺以外にもプロパガンダの犠牲者がいるのか。そして、この流れは最高に不味い)
「どうだ、同じ英雄として、興味があるなら会ってみるか?」
大佐殿が、俺のひきつった顔を愉しむように覗き込んでくる。
「大佐殿。遠慮しておきます。本官は兵站拠点を離れることができません」
大佐殿はおもむろに新しい煙草に火をつけ、その紫煙の向こうで、相変わらず俺の真横で無機質な背景と化している少佐へと、意味深な視線をゆっくりと向けた。
「そうか、まあ、お前の返事は、関係ないがな」
大佐殿の不穏すぎる言葉に、俺の背筋を冷たい悪寒が駆け抜けた。
「大佐殿。そもそも、この人物は存在するのでありますか?」
「さあな」
大佐殿はただ煙草の煙を吐き出しながら、どこまでも爽やかに、どこまでも残酷に微笑むだけだった。
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