第152話:世界大戦 その四十三
帝国東部、兵站拠点。
千名以上の人間が長期間にわたって寝食を共にするこの場所は、いつの間にか荒野に出現した一つの「小さな村」と化していた。
この兵站拠点の維持に携わる者や、国境へ向けて泥を穿ち続ける鉄路延伸の作業員たちには、労働の正当な対価としての賃金(軍票)が支払われている。
軍が直接管理・運営する官営の売店では、支給された『臨時軍票』を用いることで、配給とは別に、甘味や煙草、本物の珈琲、さらには新しい布地や石鹸といった、生活を豊かにする様々な嗜好品と引き換えることが可能だ。
この「働けば働くほど自分の生活が確実に良くなる」という原始的かつ強力な動機付けは、当初の目論見通り一定の成果を収めていた。
――しかし、そう。……そこまでは、完璧な計算だったのだ。
合理的で完璧な軍票経済を設計したにもかかわらず、人間というあまりにも不確実で利己的な生き物は『規則の隙間』を本能的に突いて、誰に教わるでもなく、勝手に独自の「闇市場」や「私的金融」を作り出してしまったのである。
発覚の最初のきっかけは、衛生班から俺へと叩きつけられた、原因不明の糞尿被害と異臭に対する現場の苦情報告だった。
調べさせてみれば、作業員の一部が周囲の林から野兎や野鳩を勝手に捕獲し、仮設住宅の死角で極秘裏に「畜産」を開始していたのだ。
そして、そこで得られた新鮮な獣肉は、軍の目を盗んで、夜闇の闇市で軍票を媒介にして取引・販売されていたという。
さらに、俺の予想を狂わせたのは、作業員の定着率(稼働率)を一定以上に確保するために仕込んだ『十日間の勤務に就いた者には、特例として酒類の購入権利を付与する』という特例だった。これが最悪な形で裏目に出たのだ。
「――隊長さんよぉ、『賭博』の借金の形として、せっかく作った『密造酒』を巻き上げられちまったんだ! 頼むからあれを取り返してくれよ!」
ある朝、執務室に駆け込んできた一人の難民が、自らの不法賭博と密造酒生産という犯罪行為を告白するような、あまりにも酷い訴えを涙ながらに喚き散らしたことで、この小さな村の地下で駆動していた違法行為の全貌が、一気に白日の下に晒されることとなった。
飢えを凌ぎ、肉体の健康を取り戻して物質的に少しばかり「豊かになった人間」が、次なる段階として求めるもの。それは、さらなる刺激的な『娯楽』であり、そして、他者を経済的に支配する『他者からの搾取(金融)』なのだ。
そして何より、ここにいる難民(元捕虜)の大部分が、元々は国家の都合で無理やり戦場へと引きずり出された『民間人(徴兵組)』だ。
つまり農業や畜産、料理人、果ては精巧な家具職人にいたるまで、社会を駆動させるためのあらゆる「職種経験」を持つ人間が、高密度で最初から混ざり合っていたのだ。
設備も器具も不十分なこの前線では、高度な蒸留は物理的に不可能だと思っていた。だが俺の計算はあまりにも甘すぎた。
純度の低い、ただの発酵酒程度であるならば、彼らが持つ職業経験で配給資材からでも容易に作り出すことができてしまうのだ。
彼らは、配給された大麦の一部を食べずに水に浸けて発酵させ、糖化の触媒となる『麦芽』へと変化させていた。後はそれを茹でて潰した芋類に混ぜ合わせるだけで密造酒が完成する。
さらに、腕の立つ家具職人の難民たちが、廃材を組み合わせて作り上げた精巧な木樽の中では、配給として配られたはずの林檎や葡萄の果実が、部屋の隅の暗がりで勝手に糖気発酵を起こし『密造果実酒』へとその姿を変えていた。
なお、その件に関して元曹長の班長は、俺の目の前で直立不動のまま実に見事な屁理屈(言い訳)を悪びれもせずに言い放った。
――「大隊長殿。我々はただ、配給された果実を班員全員で平等に分配するために、一箇所にまとめて保存していただけに過ぎません」
(……もし俺が、逆の立場ならば、保全上の理由から管理者を決めて、まとめて管理していたというだろう。俺は人間の生命力や欲望を完全に読み違えていた)
「平等に分けるために一か所に保存していただけ、か」
言い放った班長の顔を見る。その瞳の怯えの裏側には、こちらの出方を冷徹に窺うような、したたかで狡猾な光が宿っている。
彼らを取り締まること自体は、至極簡単だ。密造酒をすべて没収し、首謀者を即刻、憲兵へ引き渡してしまえばいい。
だが、単純な「軍法」による強権的な解決は、俺の計画を大きく停滞させるだけの悪手にしかならない。地下の闇市を力ずくで圧殺してしまえば、難民たちは日々の小さな愉しみを失い、その過負荷により、いずれ暴動を起こす。
そして酒と賭博という娯楽を完璧に禁止してしまえば、過酷な鉄路延伸工事に耐えるための唯一の脳内麻薬が消え、作業効率が落ちてしまうだろう。
「糞尿被害を出す勝手な畜産は原則禁止する。軍の衛生班が定期的に見回りをするので清掃を徹底させろ、その代わりに清掃も軍からの委託業務とてして賃金を払う」
「さすが、隊長さんは分かって下さる」
(調子のよい男だ、だが元曹長には、衛生面さえ問題なければ軍は黙認するということが正確に伝わったようだ)
「班長、一つ聞くが、この賭博というのは何だ」
「はい、ダイズ(サイコロ)を二つ振り七より大きいか、小さいか当てるだけの簡単な遊戯です。……木工職人が作った精巧なダイズなので、……不正もできません」
「不正」という部分に奇妙な引っかかりを覚えた俺は、詳しく問い詰めてみた。
初めに地面に数字の七を書いて、六以下か八以上に賭ける。ダイズは子が順番で振る。七が出れば親(元締め)の総撮りだが子が当てれば一・五倍になるというものだ。
なるほど、これだけ単純だからこそ、難民たちは「七さえ出なければ、半分以上の確率で当たる遊戯だ」と見事に勘違いしているのか。
「班長。……その内に気が付く者も出てくるぞ」
この遊戯は、元締めが狂気的な次元で大儲けするように設計された「超・搾取システム」だ。確率論の知識がある者から見れば、この遊戯は賭博ですらなく「合法的な強盗」と変わらない。
だが、依存する者たちがいるのだったら、それを合法的に管理し、作業効率を上げるための施策として取り組むだけだ。
読んでくださり、ありがとうございました。




