第151話:世界大戦 その四十二
帝国東部、広大な平野の兵站拠点。
地平線まで遮るもののない、この乾いた大地のどこかに、『赤旗国』軍の残存部隊が潜んでいる。彼らを完全に壊滅・解体させるためには、まず、軍の兵力と物資を確実に前線へと届ける「物流の道」が必要不可欠だった。
前線までの移動距離が片道三日を超えてしまえば、馬や輓牛による補給隊は、自分たちが前線へ運ぶはずの貴重な物資を、移動中の自分たちの胃袋で食い潰してしまう。
往復にかかる膨大な飼葉と水の積載量が、現場に届けるべき本命の物資の量を上回ってしまうのだ。それでは補給とは名ばかりの、ただの最も費用対効果の悪い自転車操業でしかない。
――補給限界点。
敷設された線路(鉄路)から、物理的に四十キロメートル以上離れてしまえば、既存の馬車輸送による兵站は事実上完全に機能停止になる。
だからこそ、俺は港湾から先へ向けて、単なる強行鉄路の延伸だけでなく、「二十キロメートルごと」の区間に小規模な兵站倉庫群を新規に建設する仕様書を参謀本部へ提出したのだ。
一区間、二十キロ。それならば、一般的な馬車も生身の人間も、一日か、長くても二日もあれば移動できる。倉庫から次の倉庫へ、物資を確実に送り継いでいく方式だ。
「なぁ隊長さん。俺たちも暴れる気はないんだ。ただ、故郷の家族に手紙の一通でも送らせちゃくれないかね?」
この突貫の鉄路延伸作業班において、難民たちの実質的なまとめ役となっている泥と埃で汚れた男が、作業の合間に汗を拭いながら問いかけてきた。
軍籍離脱の署名証書によれば、彼は赤旗国軍の元・曹長であったはずの男だ。
今回の『戦時特別雇用制度』における難民の作業班の人選は、元の軍の部隊単位や出身地ごとではなく、完全に個人の健康状態や作業適性の数値だけで決めている。
だが、人間の組織は、どうしても元の階級による上下関係が自動的に出来上がってしまうようだった。
俺は手にしていた線路の延伸図面を無造作に折り畳み、その元曹長の男に向けて、感情を綺麗に排した乾いた官僚の口調で答えた。
「もちろん検閲されることになるが、それは預かろう。……ただし、届く可能性は低い。返事が来る可能性は、もっと低い」
戦時下の難民キャンプという閉鎖空間において、「郵便が届かない」「返事が来ない」というのは、ある意味では普遍的な絶対の現実だ。
――それに、そもそも彼らの故郷の村が、『赤旗国』の総力戦により残っているなどという保証はどこにもないし、確認のしようがなかった。戦略上、街ごと放棄するのは、帝国も行っているのだ。
元曹長は、自分の周囲に、他の難民たちの不穏な視線がないことを注意深く確認すると、さらに声を潜めて小声でささやいた。
「……分かってますよ。でも皆不安なんです、気休めでも無いよりはいい」
「……そうか」
俺は短く答え、図面を軍服の衣嚢の奥へとねじ込んだ。
なるほどな、やはりこの男は有能な下士官だ。
彼がこの俺に要求してきたのは、本当に機能する郵便制度などでは決してなかった。
このままでは不安の過負荷で暴発しかねない難民たちの精神を安定させるための『故郷が残っている』という、「希望という名の息抜き」なのだ。
暴動という最悪の事態を未然に防ぐ。元下士官らしい実に現実的で、これ以上なく冷徹な生存戦略だった。
「明日の夕方、作業が終わった後に回収する。用紙は軍で用意する。……ただし、一通でも軍事機密めいた記述があれば、その時点でこの話はなしだ」
元曹長は小さく頷くと、どこか安心したような、それでいて酷く寂しそうな目で、遠くの延伸工事の現場へと視線を戻した。
現在、健康状態を取り戻した捕虜は約四千名。
そのうち、この過酷な鉄路・倉庫建設という肉体労働に耐えうると診断された二千五百名が、書類の上で「捕虜」から「難民」へと名目上移行させられ、連日線路と倉庫の建設インフラに従事していた
俺は、一つの作業班を最大「三百名規模」として彼らを振り分けた。
班が百名程度では統率こそ容易でも、突貫工事としての作業効率が悪い。逆に五百名を超えてしまえば、今度は反乱を警戒するための警備兵の数を増やさねばならず全体が崩れてしまう。
複数の工事現場が同時多発的に発生することで、それらを装甲車で巡回して見て回る俺自身の生産性は著しく落ちる。だが、それでも全体の工期進捗は、これが最も確実に向上する最適解なのだ。
幸いなことに、難民たちからの俺に対する印象は決して悪くなかった。
当初こそ、俺のことは冷徹な捕虜収容所の現場責任者(悪魔)だと思われていたが、健康状態を取り戻した彼らは、毎朝配給される温かいスープや、凍えた肉体を癒やす浴槽が、誰によって現場に提供されているのか知ることになったからだ。
難民キャンプの取材にやってきた帝都の従軍記者の一人が、彼らにこう吹き込んだのだ。
「帝国の英雄が、難民に対して給食車と浴槽車を手配した」と。
もちろん、その従軍記者の言葉は嘘ではない。だが、正確でもなかった。
俺は単に、健康な身体でなければ「捕虜」から「労働力(難民)」への移行などできない、と合理的に判断しただけに過ぎない。それに、俺自身も本物の風呂が欲しかったのだ。
誰も直接にはその名を口にしないが、泥にまみれて鉄路を敷く難民たちは皆、俺が帝国の『街道大尉』だと知っている。
もっとも、その大層な二つ名は参謀本部によって作られたプロパガンダであり、
俺自身には彼らが期待するような英雄の覇気など、微塵も存在しない。
「大尉。貴方は、人心を掌握するつもりがないのに、人心を掌握してしまうようですね」
すぐ真横に立っていたのにも関わらず、まるで心音すら消し去ったように存在自体を完全に消し去っていた少佐が、不気味に張り付いた笑顔のまま、耳元で低く話しかけてきた。
俺は心臓が止まるかと思い、思わず一歩後ろへ下がった。
(酷い言い方だ。俺は嘘もついていないし、誰一人として騙してなどいない。ただ、事実をすべて開示していないだけだ)
「少佐。俺は、俺の快適で安全な隠居生活のためにやっているだけですよ」
港湾から五十キロメートル離れたこの兵站拠点は、今や複数の難民作業班が寝食を共にする巨大な生活拠点ともなっている。
実質的に千名以上の人間が長期間にわたって滞在するその区画は、もはや剥き出しの荒野の中に突如として出現した、一つの『小さな村』と化していた。
――結論から言うならば、俺は読み切れていなかった。
俺は難民に対して「食事と住む場所、そして仕事を提供する」。それだけで彼らを完全に管理できると、それが合理的だと盲信していたのだ。
しかし、目の前の難民たちの正体は、政治体制や貧困によって追い詰められた、救済を待つだけの弱り切った被害者ではなかったのだ。
彼らは元軍人であり、体力が回復した今、自らの規律と経験を武器に、新しい社会を勝手に作り始めていた。
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