第150話:世界大戦 その四十一
帝国東部、北の小さな漁村。
帝国軍は、東部の地に新たな絶対の兵站拠点を手に入れることとなった。
南部義勇兵――実質的な南部諸国正規軍の精鋭の一部である二千五百名が、この小さな漁村へと完全合流を果たしたのだ。
俺が手配した最新鋭の『蒸気機関式大型杭打機』と、彼らの有り余る圧倒的な人的質量を投入し、昼夜を問わず二十四時間態勢で行われた突貫の改修工事。
それにより、あの複線通行を可能にした巨大な鋼鉄製桟橋と物資倉庫群は、事前の予定を大幅に前倒しし、わずか「七日間」という驚異的な短納期で完璧に完成してしまった。
「大尉。参謀本部の予定よりも、大幅に速くすべての建設が終わりましたね」
横に立つ少佐は、手に入れた新しいおもちゃの遊び方を無邪気に聞くかのように、こちらの反応を値踏みして試すような、不気味な薄笑いを浮かべていた。
「少佐。すべては、南部義勇兵たちの献身的な協力のおかげです」
俺は手帳を閉じながら、息を吐き捨てた。
(……想定外だ。東部は敵主力が壊滅しただけで、敵残存部隊がどれほどの規模なのか把握しきれていない。港湾拠点の建設と難民キャンプ管理で数か月は後方に引きこもるつもりだったのに南部義勇兵が優秀過ぎて一瞬で終わってしまった……)
――三日後。
そんな俺の引きこもり計画を真っ向から修正するかのように、濛々(もうもう)と立ち込める真っ白な湯気と、煙突からの不気味な黒煙を噴き出しながら、この改修された湾内へとその巨大な鋼鉄の巨体を滑り込ませてきた怪物がいた。
帝国海軍司令部が改装を進めていた特設巡洋艦――通称『浴槽艦』であった。
艦内に整然と並べられた超高圧の蒸気ボイラーと、吃水線下に張り巡らされた巨大な熱水タンク。
その圧倒的な熱量供給システムは、一度に「百名規模」の兵員を同時に収容し、最前線の地獄で彼らの肉体にへばりついた硝煙の汚れやこびりついた泥を、文字通り瞬時に「根絶」する能力を秘めていた。
さらに、鋼鉄製桟橋の先端では、大型輸送艦から次々と重厚な鋼鉄の特殊車両が陸へと降ろされていく。陸軍の『強行衛生大隊』が誇る、野戦浴槽積載重車輌群であった。
巨大な真水槽と高圧蒸気釜を背負ったその特車群は、拡張されたばかりの桟橋を滞りなく滑らかに通過し、またたく間に難民キャンプの居住区へと向かって不気味に進軍を開始した。
港湾には巨大な『浴槽艦』が洋上の絶対的な衛生拠点として機能し、陸上からは『強行衛生大隊』の重車輌が、最前線の泥濘へと絶え間なく圧倒的な熱水を供給する。
陸海共同によって洋上と陸上から同時に確立された、この大規模な「減汚・休養インフラ」。
それこそが、連戦の過負荷によって精神の防壁が焼き切れかけていた東部軍の将兵の士気を再充填し、予測を遥かに上回る驚異的な『超短期での再攻勢』を可能たらしめた基盤そのものだった。
「街道大尉。久しぶりだな」
咥えた煙草の紫煙を深く吸い込み、大きく吐き出しながら、桟橋の上をこちらに向かって傲然と歩いてくる一人の男がいた。
それは、帝都の艦型試験池の総責任者であり、あのスクリュー式蒸気戦艦を完成させた、海軍のあの『大佐殿』だった。(第123話)
最後に顔を合わせたのは、『豊浦王国』の軍港だろうか。およそ「半年ほど前」のことになるはずだ。
西部三国同盟の解体処理(第127話)の関係で、西の『豊浦王国』の帝国海軍基地に常駐しているはずの海軍幹部が、なぜわざわざ、真逆の北東の小さな漁村に現れたのか。俺の背筋に冷たい悪寒が走る。
「お前が注文した風呂を持ってきてやったぞ」
大佐殿は、難民キャンプへ向けて地鳴りを立てて進軍していくあの野戦浴槽積載重車輌の列に向けて煙草の先端を突き出し、これ以上ないほど爽やかで不遜な笑みを浮かべてみせた。
「はっ、大佐殿。わざわざのご足労、誠に恐縮であります」
正確に言えば、俺が野戦病院の寝台の上から参謀本部へ向けて具申した中身は、『一万二千人の赤旗国捕虜の健康状態の改善施策』に過ぎなかった。
あの餓死の包囲網を生き残った一万二千人の一般兵の大部分は、現在、極度の栄養失調によって完全に衰弱しきっている。
そんな健康状態で解放すれば、餓死するか病死することになる。人道的な帝国として、そのようなことはできないのだ。
まずは彼らの肉体を、最低限の労働に耐えうる『健康体』になってもらう必要がある。その後に、身元や思想の確認が調査され「自ら軍を辞める」という誓約書の公文書にその手で署名させることで、初めて合法的な難民となるのだ。
だからこそ、俺は大規模な医療班の投入と大病院の突貫建設の必要性を、もっともらしい人道的大義名分にして提出したのだ。
……まあ、そのついでに言うならば、敵の大砲を喰らって全身傷だらけになった俺自身が泥と消毒薬の臭いから一刻も早くおさらばして、温かい本物の風呂に漬かって引きこもりたいという極めて個人的な利害計算が含まれていたのも、隠された事実ではあるが。
だが、この『強行衛生大隊』の運用思想は、手元の仕様書を読み解く限り、決して悪くない。
「強行衛生大隊」――彼らは、決して安全な後方に甘んじて傷口に包帯を巻くだけの、脆弱な衛生兵などでは断じてない。
文字通り敵の銃弾の雨が降り注ぐ最前線の泥沼へ、その強固な防弾装甲で敵の弾丸を弾き飛ばしながら真っ正面から突入し、血と泥の平原に「野戦浴槽」を力ずくで強行構築する、戦闘工兵と衛生兵の複合体であった。
死線の極限に置かれた兵士たちの戦意を維持するために必要なのは、腹を満たす暖かいスープだけではない。
幾日も生死の境を彷徨い、肉体と精神の奥深くにまで文字通りこびりついた、悍ましい「死臭の泥」と「硝煙」を、圧倒的な熱水の質量で力ずくで削ぎ落とす、熱き浴槽なのだ。
大型石炭ボイラーが唸りを上げ、砲煙の混じる極寒の冷気の中に、真っ白な高温の湯気が爆発的に立ち込める。
重装甲車の影で即座に組み上げられた湯船を見た前線の将兵たちは、それが単なる衛生設備などではなく、戦場で失いかけた人間性を力ずくで奪還するための「装甲陣地」であることを直感的に理解するだろう。
「街道大尉。どうだ、我が海軍の誇るこの浴槽艦は凄いだろう、乗ってみるか?」
大佐殿の不敵な目線の先には、先ほどから背後の倉庫群に山積みにされた木箱の陰へと、完全に擬態化してこちらの様子を伺っている少佐の張り付いた影があった。
「大佐殿。大変ありがたい御提案ですが、本官は直ちに難民キャンプに戻らないといけません」
俺は、完璧な敬礼と笑顔で即座にその誘いを拒絶した。
(……間違いない。少佐が海軍の大佐殿に、俺がここに居ると告げ口したのだ。東部から遠く離れた『豊浦王国』にいる大佐殿にどうやって連絡したのかは不明だが、少佐は、さっきも海軍の作戦に興味があるかと聞いてきた。俺に何かをさせるつもりなのだ)
俺は最高級の風呂の誘惑に後ろ髪を引かれながらも、書類を確認しますと言い残し、大急ぎで軽量装甲車の車内へ入ると内側から鍵を掛けた。
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