第148話:世界大戦 その三十九
西方陣地、仮設医療施設。
『赤旗国』軍三万五千を文字通り餓死の奈落へと突き落とした、あの一大反攻作戦から、すでに十日の月日が流れていた。
入院当日、軍医からは「四、五日もすれば元通り歩けるようになる」と告げられていた。しかし十日が過ぎた今も、俺は白い天幕に囲まれた窮屈な寝台の上に、半ば固定されるように身を横たえている。
もし軍人の定義が「前線で血を流し、敵を排斥する武人」であるならば、俺は間違いなく軍人の枠から外れた存在だった。
陸軍大尉という、それなりの階級章を胸に佩いてはいても、肉体そのものは訓練を受けていない一般市民と何ら変わりはない。
至近距離で砲弾が炸裂したというのに、煤一つつけず無傷で復帰してみせたあの少佐とは、生命体としての構造からして違うのだ。
――もっとも、少佐が無傷だったのは、彼が文字通りの「鋼鉄の城」である重装甲指揮車に搭乗していたからであり、肉体の強靭さだけが理由ではないのだが。
その少佐が、俺の寝台脇に置かれた無骨な丸椅子に腰を下ろした。革手帳を繰る手つきだけは、相変わらず戦場に似合わず優雅なものだった。
「大尉。敵の将校、下士官、および司令部要員は、全員が帝都近郊に新設された高等捕虜収容所へと輸送を完了しました」
「……少佐。最も懸念されていた『一般兵』の件は、どうなりましたか」
「大尉。貴方の具申した特例案が、参謀本部を通過しました。現在は正式な公文書の発給待ちです」
――その数、捕虜一万二千人。
敵の総数のうち、武器を落とした生存者の数だった。
帝国は、国際社会において、どこまでも人道的かつ法治主義的な近代国家であり続けなければならない。それが帝国の絶対的な国是だった。
他国を経済的・法的な依存関係の鎖で縛り付け、戦争を行うための費用を物理的に支払えない水準まで強制的に引き上げる。
それによって、国家間の大規模な武力衝突を構造的に抑止する――これこそが、帝国が推し進める『覇権国家計画』の本質である。
そのためには、国際社会からの批判を浴びる「捕虜の不当な強制労働」などという野蛮な事実は、国際法的にも、人道網の観点からも、歴史に一文字たりとも残してはならなかった。
しかし、戦時経済へと移行した現在の帝国に、何も生産しない一万二千人もの捕虜の口を、ただ善意だけで養うような財政的・兵站的余力など残されているはずもない。
生かすためには、彼らを「捕虜」の定義から外す必要があった。だからこそ、彼らには「自主的に軍籍を離脱する」という誓約書付きの公文書に、その手で署名させるのだ。
少佐は手帳を開いたまま、まるで極上の娯楽小説の結末でも語るかのように、愉しげな口調で説明を続けた。
「しかし大尉、前線将校の反発は凄まじいものでしたよ。あの中佐などは、大尉の『人道案』を聞いた瞬間、“我が方の兵食すら逼迫しているというのに、敵の敗残兵を助ける余裕などあるものか!”と、文字通り顔を真っ赤にして激昂していました」
……そのあたりの根回しと戦術的優位性の説明は、参謀本部側できちんと通しておいてほしかったものだ。足が動くようになったら、真っ先にその中佐の元へ弁明の挨拶に向かわねばなるまい。
「少佐。彼らの軍服を脱がせ、正規の武装解除を執行した上で軍籍を剥奪すれば、彼らはもう国際法上の『戦時捕虜』ではありません。戦禍によって交通網が遮断され、一時的に帰国できなくなっただけの、ただの『難民』です」
俺は寝台の上で、軋む体に鞭打って少しだけ上体を起こした。
『赤旗国』の一般兵の大部分は、国家の都合で無理やり集められた農夫や労働者、いわゆる徴兵組だ。
彼らの胸中には、肉親や戦友を殺された帝国軍への怒りや恨みは確かにあるだろう。しかしそれは『戦争という巨大な天災』に対する憎悪であって、帝国人を一人残らず根絶やしにしたいという、狂信的な民族憎悪ではない。
彼らの現世における唯一にして最大の切望は、ただ一つ。――『生きて故郷の土を踏み、大切な家族の元へ無事に戻ること』――それだけなのだ。
武器は完全に没収する。大戦が終結するまで、祖国への帰国も一切認めない。だが、帝国は彼らを決して飢えさせない。安全な居住区と、相応の労働機会を平等に提供する。
鉄道建設、泥濘で破壊された道路の補修、港湾荷役、そして占領によって荒廃した農地開墾――。これらの過酷な重労働に参加した「難民」に対しては、正当な対価としての賃金が支払われる。
「大尉。今の帝国財務府には、彼らに支払うための、物理的な正貨も紙幣も全く足りていませんよ。戦時インフレを加速させるわけにもいかない」
「少佐。現金の代わりに、軍が独自に発給する『臨時軍票』で支払えば良いのです。その代わり、軍が管理・運営する難民キャンプ内の購買所では、その軍票でのみ、あらゆる物資の決済を可能にします」
軍票で引き換えられるのは、生存に必要な最低限の粗末なパンやスープではない。
嗜好品としての甘味、煙草、そして本物の珈琲だ。『働けば働くほど、自分の生活が確実に、少しだけ豊かになる』という原始的かつ強力な動機付けを彼らの脳内に植え付ける。
それこそが、一万二千人の熱量を反乱ではなく生産へと向かわせ、暴動を未然に抑止する絶対的な安全弁となるのだ。
これは国際社会から指弾されるような捕虜の不当な強制労働などではない。帝国が人道的配慮によって開設した、避難民キャンプ内における「戦時特別雇用制度」――。
そう書類に1行書き込むだけで、悪魔の兵糧攻めは、聖母の救済へと反転する。
少佐は珈琲をすする手を止め、俺の頭の中を値踏みするような視線を投げかけてきた。
「……ですが大尉、どう言い換えても捕虜を戦時労働に就かせること自体、条約の禁止事項に触れる恐れがありますよ」
「少佐。今後は、このキャンプに『捕虜』など一人も存在しなくなります」
帝国は、崇高な人道的観点からすべての捕虜を、ここで『解放』する。
その後、解放された彼らは、自らの自由意思によって母国の軍籍を辞しただけに過ぎない。彼らが軍を自主退職したかどうかなど、帝国側には預かり知らぬことだ。
ただ、本人の申告に基づき、『私は現在、軍籍にはありません』という公文書の誓約欄に、彼ら自身の手で署名させただけに過ぎないのだから。
読んでくださり、ありがとうございました。




