第145話:世界大戦 その三十六
帝国東部、赤旗国軍包囲網。
南方陣地仮設司令部、作戦会議室。
約二年前、『赤旗国』軍が、自作自演の虐殺事件(第101話)を大義名分にして国境を越え、一斉に侵攻してきた。
当初の動員規模は兵二万。対する帝国軍は、『縦深防御(多層的な防衛陣地)』を徹底し、敵の圧力を受け流しながら防衛線をあえて緩やかに後退させ続けた。
その戦略的撤退の過程において、二つの星型要塞を自ら爆破して放棄し、複数の地方都市も一時的に敵の手に占領された。
しかし、それらすべての流血と喪失は、参謀本部が冷徹に描き上げていた、壮大な国家戦略通りだったのだ。
歪な形で前線が細長く伸び切った『赤旗国』軍は、広大な占領地域の維持と致命的な「兵站線の延長」を強制されることとなった。
そうして敵が限界まで伸び切った、その時に秘匿していた超長距離列車砲や、無限軌道式蒸気自走砲といった近代兵器を一斉に量産・実戦投入。
彼らの生命線であった補給路と後方の補給部隊を、徹底的に破壊・壊滅させたのだ。
本土からの補給を受けられなくなった各地の敵孤立部隊は、帝国軍によって誘導されつつ、生き残るために主力部隊の本陣へと、次々に合流させられていったのである。
結果として、眼下で帝国軍に包囲されつつある敵総兵力は「三万五千名」。管理するなら方法はいくらでもある。問題は、参謀本部がどこまで許容するかだ。
中佐殿の双眸から放たれる眼光が、冷え切った剃刀のような鋭さで、末席に座る俺を真っ向から射抜く。
そこには感情に任せたむき出しの殺気など含まれてはいない。しかしそれは、軍隊の規律という名の冷徹な国家機構に裏打ちされた、圧倒的な重圧を持つ視線だった。
「設計屋。参謀本部からは、捕虜一万五千名までなら受け入れられる体制があると通達が来ている」
中佐殿の非情な宣告に、俺は手帳を開いたまま、表情を一切変えずに事務的に応じた。
「承知いたしました、中佐殿。それでは減らすのは二万ですね」
俺は椅子から静かに立ち上がると、東部戦線の全域を網羅した巨大な戦術地図に歩み寄り、その北端にある小さな漁村の座標を指さした。
そこは、この広大な戦域において、『赤旗国』軍が辛うじて確保している唯一の港湾拠点だ。
「中佐殿。あくまで、例えばですが……。北の包囲網を敢えて弛緩させ、敵主力をこの漁村へと誘導します」
中佐殿の眉が僅かに動く。
「……敵に『血路』を与え、海へ逃がせというのか?」
「はい。……いいえ、中佐殿。数万の敗残兵を収容できるだけの船舶など、今の『赤旗国』には存在しません。飢えと絶望に駆られた敵部隊は、狭隘な港湾地帯で凄惨な狂乱に陥るでしょう」
さらに言うなら、真っ先に逃げ出すのは高位の将官や前線指揮官たちのはずだ。
軍隊という極めて機能的な組織において、頭脳たる指揮命令系統を失えば、如何に強靭な師団といえども、まともな反攻作戦など組織できるわけがなかった。帝国軍なら烏合の衆と化した二万の記号を処理するなど、造作もない。
――だが、俺の口から語る提案は、あくまで『そのような戦術的解釈も成り立ち得る』という、淡々とした仮定の域に留めねばならなかった。
この大戦で帝国が敗北するとは思わない。だが、万が一にも敗戦の謗りを受けることになれば、後の戦犯裁判でこの『二万人引き算計画』の首謀者として、絞首台に立たされるのは御免だった。
俺はあくまで事務方だ。引き金を引くのは、俺ではない。
中佐殿は、依然としてその刃の如き視線を俺に据え置いたまま、低く呟いた。
「……設計屋。貴様は下がって良い。先ほど届いた、貴様の新しい玩具でも見ていろ」
「はっ、中佐殿。それでは、失礼いたします」
完璧な敬礼を捧げながら、俺は安堵の息を漏らしつつ司令室を後にした。
新しい玩具、か……。俺が自ら図面を引いたわけでも、ましてや欲しいと強請ったわけでもないのだけどな。
俺は、『蒸気機関式無限軌道大型野戦給食車』と共に、この戦域へと運び込まれていた小型装甲指揮車の車列へと移動した。
以前の誘導作戦(第137話)において、特務大隊の専用指揮車として配備された大型の『蒸気機関式装甲指揮車』は、鋼鉄装甲板の厚みと、圧倒的な自重によって信頼できる防御性能を持っていた。
ただし、その強大な重量の代償として燃費(石炭消費効率)が悪く、また建設工兵部隊が突貫で作り上げるトラス構造の「使い捨ての木造仮設橋」の橋梁荷重を超過してしまうため、物理的に川を渡ることができないという運用上の問題があった。
そのような現地運用評価を帝都の新兵器開発部門へ送ったところ、軽量化に成功した特殊車両があるので至急現地へ手配する、実戦環境での評価を返信せよと、事後承諾で押し付けられてしまったのだ。
新兵器開発部門の異世界人は優秀ではあるが、俺の都合に合わせてくれるわけではないのだ。
手渡された新しい仕様書によれば、ボイラーと車体が徹底的に軽量化された分、石炭ではなく、無煙木炭(白炭)の火力でも稼働可能であるとなっている。
確かに、不純物を極限まで取り除いた無煙木炭を燃料として使えば、無煙石炭以上の『完全な無煙化』が達成できる。夜間の隠密行軍においても火室(炉)からの僅かな光漏れを抑え込むことができるだろう。
しかし、その代償として支払わされたものは大きい。正面の鋼鉄装甲こそ一定の厚みが確保されているものの、側面や後方の装甲板は、重量削減のために頼りない。
現設計の割り切った仕様のままでは、戦火の中でただの『動く薄皮の鉄箱(棺桶)』になりかねない。
この東部の最悪な泥濘地において、鋼鉄の無限軌道が泥を巻き上げ、万が一にも排気口が閉塞して立ち消えを起こせば、その瞬間に、ただの動けない無防備な標的へと成り下がるのだ。
仮設橋を難なく渡りきれる、機動性そのものは高く評価する。
だが、装甲の厚みを最低限にするのであれば、開発部門は『密閉循環式(凝縮器付き)』を導入して水の消費を極限まで抑え込み、排気消音器の消音・消炎化をさらに徹底した上で、『隠密偵察・強行伝令車』として運用を限定するべきだったのだ。
間違っても、俺を乗せて最前線に立たせるような指揮用の性能では決してない。
この泥濘が広がる包囲戦において、俺自身が、そしてこの何とも頼りない軽量装甲車両が、どこの座標に配置されるのかは分からない。
今の俺にできるのは、敵の陸戦砲の射程の遥か外側、完璧な安全圏に配備されることを祈るしかなかった。
読んでくださり、ありがとうございました。




