第144話:世界大戦 その三十五
帝国東部、赤旗国軍包囲網。
――その南方、小高い丘。
硝煙と泥にまみれた最前線の地平線から、地響きを立てて近づく巨大な鋼鉄の影があった。
その分厚い鋼鉄の履帯が凍てついた東部の大地を容赦なく噛み砕き、巨大な煙突からは空を不気味に焦がすような黒煙が激しく吹き上がっている。
遠目からその威容を眺めるだけならば、防衛線を力ずくで突破するために投入された、装甲戦闘車両にしか見えない。塹壕に身を潜める兵士たちの緊張は一瞬で極限に達した。
しかし――。
吹き付ける寒風に乗って最前線の陣地へと漂ってきたのは、死と破壊を予感させる硝石の焦げた臭いでは決してなかった。それは、空腹の胃袋と五臓六腑に激しく染み渡るような、香ばしく甘い「小麦」の匂いだった。
真っ白に噴き出す蒸気の向こう側から姿を現したのは、車体全域に頑強な防弾装甲を施された、移動式の巨大な野戦調理窯だった。その名も『蒸気機関式無限軌道大型野戦給食車』である。車体側面の扉が激しい高圧蒸気の排出音とともに左右へ開放される
そこから周囲の泥野へ向けて溢れ出したのは、戦場の痛烈な冷気を一瞬で吹き飛ばす、何百人分ものパンを焼き上げる圧倒的な温かさを孕んだ、白い湯気の塊だった
給食大隊三百名。彼らは銃の代わりに巨大な鉄鍋と攪拌用の櫂を握り、最前線の兵たちを胃袋から支える、文字通りの『戦う料理人』たちだ。
彼らの無駄のない組織的な連携により、凍土の上には瞬く間に白煙の立ち上る巨大な野戦口糧配給所が構築されていった
「設計屋。この“最新兵器”を、どう評価する?」
隣に立つ中佐殿が、腕を組んで湯気を見下ろしながら低く問いかけてきた。
「はい、中佐殿。過酷な前線において、温食は単なる栄養補給を超えた“精神的防壁”として機能します。ただし――」
「ああ、分かっている。この黒煙を目標として、敵の砲弾が飛んでくるな」
中佐殿が、白い湯気の塊を見ながら冷淡に笑う
通常、隠密を要する小規模の遊撃部隊や斥候の食事は、調理の煙で自陣の位置を特定されないよう、無煙炭や小型魔導ストーブを使用するのが大原則だ。
他には、水を掛けるだけで化学反応を起こして発熱する生石灰を利用した携帯口糧も基本装備として持たされている。
だが、今回のように、数千の兵力が陣地を固めている強固な包囲防衛線であるならば、話は別だ。
車体を装甲化されたこの『無限軌道給食車』を駆り、敵の散発的な弾雨の中を文字通り爆走させて最前線へ直接物資を届けることが可能なのだ
大隊規模なら、第一中隊は製パン、第二中隊はスープ煮込み、そして第三中隊は前線強行輸送といった、大隊規模ならではの組織的な戦闘給食が可能になる。
俺は、新型給食車の巨大な煙突から絶え間なく立ち上る漆黒の煙を指さした。
「中佐殿。地平線の向こうの敵は、この黒煙を目撃したところで、それが『自走砲』なのか、それともただの『給食車』の煙なのか、区別を付けることは物理的に不可能です」
この装甲給食車が発する「パンを焼くための大量の煙」を、本物の自走砲の「砲撃の煙と重低音の機関音」に意図的に同調させる。
見通しの悪い場所ならば敵の音響測定班や斥候兵は、実際よりも数倍の規模の巨大な帝国砲兵旅団が陣地を展開している錯覚を起こすはずだ。
「あえて目立つことで、敵を間接誘導することが可能になる、ということか」
「はい、中佐殿。ですが『欺罔給食車』というただの目眩ましに過ぎません。単体を前線へ突き出せば、敵の決死隊に突破されて全滅します。使いどころは極めて限定されます」
「……設計屋。貴様も作戦会議に参加しろ、気になることがあるなら発言を許す」
「はっ、承知いたしました。中佐殿」
俺は完璧な敬礼を捧げながら、心の中で激しく頭を抱えていた。
(……何故、どうしていつもこうなるのだろうか。教導大隊副官であるならば、まだ言い訳が立つ。だが、今の俺は、教導大隊副官の立場ではなく、特別監察官として技術実査しているに過ぎない。俺の案が、そのまま採用されないよう慎重に発言しなければならない)
――仮設司令部、作戦会議室。
薄暗い会議室の壁には、東部戦線の全域を網羅した巨大な戦術地図が掲げられていた。
集まった各特務大隊長たちが、険しい表情でそれぞれの部隊配置を厳格に確認し合っている。
その地図の真ん中、包囲網の袋小路に蠢いている『赤旗国』軍の主力は、「三万五千名規模」にまで膨れ上がっていた。当初の予測、三万名を、さらに上回る、一つの都市にも匹敵する人数だった。
おそらく、本国からの補給線が完全に窒息したことで、兵站が完全に枯渇した敵の細々とした別動隊や敗残兵たちが、生き残るために吸い寄せられるように主力の本陣へと一斉に雪崩れ込み合流した。
その流入速度が、帝国の事前予測値を遥かに上回った結果だろう。
室内を重苦しい沈黙が支配する中、俺は会議机の末席から、静かに手を挙げて声を響かせた。
「中佐殿。確認ですが、参謀本部は殲滅を命じているのですか。それとも管理可能な人数まで減らす方針ですか」
「……設計屋。だから貴様が嫌いなんだ。何故、最初の質問が管理になる?」
中佐殿の、全てを射抜くような鋭い武人の眼光が、俺を真っ向から突き刺す。
中佐殿は、どこまでも純粋で優秀な前線の武人(軍人)だ。目の前の戦場にどう勝つか、味方の損害をいかに最小限に抑えるか、そして敗走する敵をどう追い詰めるか。
この作戦会議の場において、彼女が組み立てている戦術的な思考は、一点の曇りもなく正しい。
だか、帝国と『赤旗国』の政治思想が全く異なるとしても、降伏を受け入れず戦場で一方的な残虐となれば国際的な非難は避けられない。
たとえ参謀本部の真の目的が敵の『殲滅』であったとしても、それは国際法上、一切の不備がない手続きの元で行われなければならない。
つまり――。戦意を喪失した者が『投降する隙すら与えられないほどの圧倒的な戦闘終末』が必要なのだ。
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