第109話:東方赤禍大戦 その十
帝都参謀本部、特別監察室。
「少尉。重大な一報があります」
机に向かう俺の前に、中尉がいつもと変わらぬ静かな足取りで歩み寄ってきた。その手には、まだインクの匂いが残る分厚い報告書の束が握られている。
「中尉。例の『合同軍事演習』の続報ですか」
「いいえ、少尉。それとは別件――いえ、最悪の報せです。二日前、霧宮王国に亡命していた旧豊浦王国の王宮聖騎士団および主力貴族たち――『豊浦王国解放戦線』が、大規模な武装蜂起に踏み切りました」
俺は手を止め、冷徹な中尉の顔へと視線を上げた。
差し出された最重要機密の書類をひったくり、素早く目を走らせる。
報告書によれば、豊浦王国解放戦線は霧宮王国の領内から、現在は帝国の保護下にある旧豊浦王国の国境地帯へと一斉に進軍を開始したという。表向きは「故郷の奪還と解放」を掲げた亡命貴族たちによる独立した暴動だ。
しかし、参謀本部が水面下で進めていた調査の結果、彼ら解放戦線と、西側の『西部三国同盟』との間には、すでに数年前から秘密裏に締結されていた不可解な軍事同盟の存在が確認された。
そして、解放戦線の進軍開始と同時に、その秘密同盟の参戦条項が自動的に発動。
西側の大国である『美州共和国』、鉄壁の『環山連邦』、高度な土木防衛を持つ『平水共和国』の『西部三国同盟』は、国境付近での「合同軍事演習」の陣形をそのまま実戦配置へと切り替え、帝国への正式な宣戦布告を行ったのだ。
「……中尉。霧宮の異世界人が、この亡命貴族たちの動向を事前に把握していなかったとは到底思えません」
俺はしばらく、報告書の文字列を見つめたまま深く黙り込んだ。
――霧宮の真意が、どうしても読めない。奴らのこれまでの行動原理から逆算すれば、その目的はあくまで「帝国に依存しない独自の経済圏の構築」と、「局地的な消耗戦による力の均衡維持」のはずだ。
西側の三国同盟による経済封鎖(第99話)は、間違いなく霧宮の異世界人が仕様書を書いた。それは理解できる。
しかし、霧宮に逃れた亡命貴族たち(第57話)に、西側の大国たちを動かして「秘密軍事同盟」を締結させるほどの外交交渉など、果たして可能だろうか
――五日後。恐るべき速度でさらなる新たな一報が、特別監察室に飛び込んできた。
「少尉。『自由比帆諸島』も帝国に対して正式に宣戦を布告しました」
中尉の声に、俺はわずかに息を止めた。
『自由比帆諸島』(第96話)。霧宮が仕掛けた、あの不具合じみた海軍残党の亡命政府。本来であれば単独で軍事行動を起こせるほどの戦力など残っていないはずの存在が、この全方位の混乱に乗じて、ここぞとばかりに「反旗」を掲げて名乗りを上げてきたのだ。
東の『赤旗国』。西の『西部三国同盟』と『豊浦王国解放戦線』。そして、北の『自由比帆諸島』。
それぞれの参戦理由も、地政学的な計算も、国家としての思惑もまるで異なる。だが、結果として帝国は今、地図上のあらゆる方角から、同時に牙を剥かれる形となった。
窓の外に目を向ければ、そこにはいつもと変わらぬ帝都の穏やかな陽光が降り注いでいる。馬車鉄道は今日も時刻表通りに寸分の狂いもなく行き交い、買い物客たちの楽しげな街の喧騒は何ひとつ変わっていない。
だが、その健やかな平穏の裏側で、世界はすでに後戻りのできない最悪の一線を越えていた。
帝国と全面戦争を引き起こすことは、決して霧宮の利益にはならないはずだ。
なぜなら、帝国がこれほどの多重過負荷で追い詰められれば、公式な軍事同盟こそ結んでいないものの、帝国の経済インフラに完全に依存している南方諸国が、自らの生存を懸けて確実に帝国側として大戦に参戦してくるからだ。
世界規模の泥沼の陣営戦。
俺は、震える手元を隠すようにして、報告書を静かに机の上に置いた。
――世界大戦が、始まった。
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