第105話:東方赤禍大戦 その六
帝国東部、臨時難民キャンプ。
地平線の彼方に集結した、赤旗国軍の第二波――およそ二万。
だが、その狂信的な猛攻すらも、帝国軍にとっては完全に想定された『仕様』として処理されていた。最新鋭の複合式大型機関銃は今日も機械的に鳴り続け、構築された要塞の防衛システムは、中佐殿が現場にいなくとも勝手に回り続けている。
前線の凄惨な戦況については、もはや報告書の数字を事務的に確認するだけで事足りた。
「設計屋。ここ数日、妙な陳情が急速に増えている。ここでは十分な働き口も安全な住居も与えられているというのに、それでも故郷へ帰りたいと泣きつく者たちだ」
中佐殿が、キャンプの執務室に積まれた分厚い陳情書の束を、俺の机の上に無造作に置いた。
戦況が膠着し、国境付近の小さな村に残してきた家族や、まだ赤旗国軍に徴用されていない年老いた親族のことを、難民たちは日に日に強く案じているのだ。
帝国がどれほど手厚く洗練された庇護を与えようとも、彼らにとっての本当の“祖国”は、まだあの血生臭い赤旗国の領内にしか存在しない。
――『故郷奪還組』。
もちろん、この程度の人口動態は完全に想定済みだった。以前(第42話)、難民が帝国に逃げてきたときも、やはり同じように故郷へ帰ろうとする者たちが一定数現れたのだ。
ならば、対応も当時と全く同じシステムを適用すればいいだけのこと。
「中佐殿。故郷へ戻ることを強く望む者たちには、東に隣接する『森の小国』へ移動できるよう、すぐに手配を進めましょう」
「何だと……?」
赤旗国と直接国境を接する『森の小国』にも、今や相当数の難民が流れてきているはずだ。帝国と『森の小国』を繋ぐ『人道回廊』(第44話)のインフラはとうに整備済み。救援物資を送り届けるついでに、彼らを運んでやればいい。
「設計屋。難民達は戦闘訓練など一度も受けていないし、まともな武器すら持っていないのだぞ。『森の小国』の密林を経由すれば、確かに赤旗国へ戻れるかもしれないが……戻ったところで、奴らの体制に即座に銃殺されるのが落ちだ」
「中佐殿。『森の小国』の領内には、帝国の訓練施設が存在します。彼らにはそこで、自衛のための魔導銃の基礎訓練に参加できるよう、速やかに案内を出します」
俺が淡々と仕様書をめくると、中佐殿の双眸が鋭く見開かれた。
「……そういえば、六、七年前にも難民が大量に押し寄せた事件があったな。あの時、一部の暴徒と化した難民が、帝国が貸与した護身用の武器を盗み出し、集団で赤旗国へと帰国していったという記録がある。そうか、設計屋。あの事件の絵図を描いたのも……貴様だったのだな」
(中佐殿は、『覇権国家計画』の真の目的も知っているはずだが、個別作戦の詳細までは知らないのか)
「中佐殿、帝国はどこまでも人道的観点から、難民に対して自衛のための最低限の基礎訓練を施したに過ぎません。『森の小国』もまた、難民の自由意志を尊重したに過ぎません」
俺が平然と嘯くと、中佐殿はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、すべてを察して何かを諦めたような、あるいは――自らの往くべき道を冷徹に決断したかのような、重く静かな目を俺に向けていた。
東国境の森の小型魔物はすべて駆逐されているが、『森の小国』には少数ながら今も魔物が生存している。帝国は、彼らが身を守るための基礎訓練を行うだけだ。
さらに今回も前回と同様、すべての難民に『自衛用農具・護身用具 貸与目録』という名の厳格な公文書に署名させる。防寒具や魔導ランプ、完全燃焼型の小型ストーブは貸し出すが、軍事的な武器の提供は一切行わない。
それに、今『赤旗国』へ戻るのはあまりにも危険だという客観的な事実も事前にしっかりと伝えるのだ。仕様書に、一切の嘘は存在しない。
――十日後。
捕虜の尋問記録と密偵からの最新報告が、要塞の司令室に届けられた。
赤旗国の国境付近にある村落地帯は、開戦と同時に「緩衝地帯」に指定されていた。驚くべきことに、住民もろとも内陸へ強制移住させられ、村そのものが完全に焼却処分されていたのだ。
命がけで『森の小国』から帰還した難民たちが目にしたのは、愛する家族でも見慣れた我が家でもなかった。何もない、黒く焼けた広大な焦土と、そこに新たに築かれた赤旗国軍の軍事管制区域だけだったのだ。
さらに、あ奴らの連座制は狂気的なまでに強化されていた。近隣住民への密告には破格の報酬が与えられ、見慣れぬ帰還者が一人でもいれば即座に通報される、徹底した相互監視の仕組みが村々の跡地にすら敷かれているという。
「設計屋。貴様は、あちらがここまで冷酷な手を打ってくることを、どこまで知っていたのだ」
中佐殿が、報告書を握りつぶさんばかりの力で机に押し当てた。
「中佐殿。本官は、彼らに対して帰国は極めて危険であると、事前にありのままの事実を伝えました」
『赤旗国』の異世界人は決して無能ではない。
帝国から逃げた難民が武装組織として再定義され、いずれ不正規戦の遊撃兵として送り返されることなど、最初から想定済みのはずだ。
そして実際に難民たちが戻ってきた以上、奴らは遊撃兵掃討と治安維持のために、前線からさらに多くの兵力を割かざるを得なくなる。
「貴様……初めからあの難民どもを、敵の兵力を削ぐための『陽動部隊』にするつもりだったな」
中佐殿の声には、激しい苛立ちと、同時にわずかな安堵が滲んでいた。
それは、この効率的で冷徹な機関銃陣地を作り上げた指揮官が、帝国の兵に流血を強いることなく祖国防衛を継続できているという安堵。
そして、帝国の身代わりとして、無知な難民たちの血が前線の外側で大量に流されていることへの武人としての苛立ちだろう。
――その感情自体は理解できるが、俺にはどうしても共感はできなかった。
軍人ならば、上層部の命令に従い、手持ちの資源で最善の行動を選択するのが最も合理的なはずだ。なぜ中佐殿は、勝っている最中にまで余計な感傷でシステムを曇らせようとするのだろうか。
地平線の向こうでは、今日も二万の兵が、引くことも逃げることも許されぬまま、ただ前進を続けている。
読んでくださり、ありがとうございました。




