第16話 スラムの鎖と、強制介入《一時保護》
暗殺者の少年――ゼノを連邦に迎え入れたその夜。私は彼と交わした「契約」を即座に履行するため、行動を開始した。
彼の唯一の肉親である妹は、光の王国の王都の地下に広がるスラム街、その裏組織の隠れ家に人質として囚われているという。
「湊さま、潜入の準備は整っております」
「俺の共感覚領域と、この認識阻害の外套があれば、王都の警備網など素通りできます」
深夜の王都。その腐臭漂うスラムの路地裏に、私を抱き抱えた白蘭と、防衛長官アルジェント、そして案内役のゼノが音もなく降り立った。アルジェントの空間転移魔法と隠密技術の合わせ技だ。
王都の煌びやかな上層部とは対照的に、この地下スラムには泥と排泄物、そして絶望の匂いが立ち込めていた。
「……あそこです。あの廃教会の地下に、妹のリーネが……他の子供たちと一緒に捕まっています」
ゼノが、暗闇の中で身を震わせながら一つの建物を指差した。
『対象建築物を解析。地下に多数の生体反応。いずれも極度の栄養失調と恐怖状態にあります。また、最深部から異質な……非常に微弱だが、高密度の魔力を検出しました』
ただの裏組織の隠れ家ではないらしい。
私たちは認識阻害の魔術を展開したまま、見張りのゴロツキたちを白蘭の手刀で音もなく気絶させ、廃教会の地下へと潜入した。
重い鉄扉の奥に広がっていたのは、まさに地獄だった。
劣悪な環境の檻の中に、何十人もの子供たちが押し込められている。彼らの身体には無数の殴られた痕があり、虚ろな目で宙を見つめていた。ゼノが息を呑み、檻の一つに向かって駆け寄る。
「リーネ……ッ! リーネ、兄ちゃんだ!」
「……お、にいちゃん……?」
ボロ布を纏った小さな少女が、檻の鉄格子にしがみついた。ゼノは涙を流しながら、鉄格子を素手でこじ開けようとする。
「おやおや。逃げ出したネズミが、妹を助けに戻ってきたのかい?」
不意に、暗闇から下劣な笑い声が響いた。
現れたのは、金と宝石で身を飾った肥満体の男だった。周囲には、毒を塗った刃を持つ裏組織の用心棒たちが十数人、私たちを取り囲むように現れる。
「お前は任務を失敗したようだな、ゼノ。ならば契約通り、この小娘は地下の魔石鉱山に奴隷として売り飛ばす。まあ、親の借金のカタとして俺が『正当に買った』商品だ。どう扱おうと俺の勝手だがね」
男が脂ぎった手で、リーネの髪を乱暴に掴む。
「や、やめろッ!」
ゼノが飛びかかろうとするが、用心棒たちの刃がそれを牽制する。
「やめる理由がない。こいつらの親は、俺に金と引き換えに子供の所有権を譲ったんだ。親の権利を持つ俺には、こいつらを働かせる『躾』の権利がある。他人が口を出すことじゃない」
躾。親権。
前世の児童相談所で、幾度となく立ちはだかった壁。子供を虐待する親や保護者が必ず口にする、「これは躾だ」「他人の家庭に口を出すな」という絶対の拒絶。
子供は親の所有物ではない。社会の宝だ。その命と尊厳が脅かされている時、国家には親権という強固な壁を物理的にぶち破り、子供を保護する絶対的な権限がある。
「白蘭」
「はい、湊さま」
「対象の行為を『児童虐待』と認定する。すべての檻を破壊しろ」
私が念話を飛ばした瞬間、私を抱えていた白蘭が、片足で地下室の石畳を粉砕するように踏み込んだ。
「承知しました。子供を傷つけるゴミに、生きる権利はありません!」
白蘭の姿がブレた。
瞬きする間もない神速の踏み込み。彼女の放った拳圧が竜巻のように地下室を吹き荒れ、用心棒たちを壁ごと吹き飛ばした。毒の刃など、彼女の鬼人の皮膚を傷つけることすらできない。
「な、なんだこいつらは……!? ひぃっ!」
元締めである肥満体の男が腰を抜かし、リーネから手を離した。
私はスライムの体を弾ませ、男とリーネの間に着地した。
「親が売ったからお前の物だと? 勘違いするな。親権とは子供を所有する権利ではなく、子供を『健やかに育てる義務』のことだ。それを放棄し、暴力を振るう者に、子供の側にいる資格はない」
私は固有能力《理を編む者》を起動させた。対象は、この場にいるすべての子供たち。
「強制介入権限・『緊急一時保護』実行」
私の体から放たれた温かい魔力の波が、子供たちを包み込む。
それは、虐待の危機にある児童を親元から強制的に引き離し、安全な場所へと移送する法的措置の魔術的顕現だ。光に包まれたリーネと数十人の子供たちの姿が、アルジェントの空間転移の力と連動し、一瞬にしてこの地下室から消え去った。彼らは今頃、我が国のアジールで、ルシアの温かい保護下に入っているはずだ。
「消えた……!? 俺の商品が!」
「商品ではない。彼らは今日から、黎明連邦の保護児童だ。君たちのような組織が再び手を出せば、国を挙げて君たちを滅ぼす」
私の絶対的な威圧に、男は泡を吹いて気絶した。
ゼノが、その場に崩れ落ち、嗚咽を漏らした。
「湊さま……ありがとうございます……! 本当に、リーネが……」
「安心しろ。ルシアが温かいスープとベッドを用意している。君も後で戻って、顔を見せてやりなさい」
制圧は完了した。だが、私の 《センサー・フィールド》は、まだ警告音を鳴らし続けていた。
この地下室のさらに奥。隠し扉の向こう側から、異常なまでの悲しみと、枯れ果てそうな生命の波動を感じるのだ。
「アルジェント、白蘭。あの壁を壊せ。まだ奥に『何か』がいる」
アルジェントが剣を一閃し、分厚い隠し扉が真っ二つに裂け、崩れ落ちた。
その奥の隠し部屋に踏み込んだ私たちは、息を呑んだ。
巨大な魔力抽出装置の中央。何十本ものおぞましい管に繋がれ、魔力を強制的に吸い上げられ続けている『女性』がいたのだ。
透き通るような金糸の髪。しかしその身体は骨と皮ばかりに痩せ細り、四肢には枷がはめられている。
「これは……王国に伝わる『聖女』……? なぜ、王家の守護者であるはずの聖女が、こんなスラムの地下で魔力電池のように……」
アルジェントが信じられないというように呟く。
管に繋がれた聖女が、私たちの気配に気づき、わずかに目を開けた。
その瞳は、濁りきった絶望の色に染まっていたが、私の姿を捉えた瞬間、微かな驚きが走った。
「……あなたは……違う。人間の欲望の……匂いがしない……」
擦り切れた、消え入りそうな声。
彼女の身体は、すでに生命の限界を超えている。私の回復魔法を使っても、この装置から外せば数分と持たずに命の火が消える状態だった。
「私の命は……もう、終わりです。王家の者たちに、治癒の力を絞り尽くされました……。でも、もしあなたが……優しい魂の持ち主なら……」
彼女は最後の力を振り絞り、管を引き千切るようにして、私に向かって震える手を伸ばした。
「私の残った魂と願いを……どうか、食べてください。人間たちが作ったこの残酷な世界を、あなたが……終わらせて……」
それは、究極の託宣だった。
彼女の体から零れ落ちる黄金の魔力が、私に向かって手を差し伸べている。
私は静かに、彼女のその手を受け止める覚悟を決めた。理不尽に命を奪われる者の『生きたかった明日』を継承するために。




