第9話 建物を罰しない
第9話 建物を罰しない
公開検証会から二週間後、大学は久世征一郎の研究指導資格を停止した。アークの事業者も久世との設計監修契約を解除し、公式サイトから名前と講演動画を削除した。建築雑誌の表紙を飾っていた完成写真だけが、書店の棚に残された。
久世研究室の扉からは、教授名の入ったプレートが外された。大学は在籍する学生を別の研究室へ移し、研究資料と共有サーバーを保全した。澪の黒い調査ノートは見つからなかったが、十二枚の絵葉書と電子記録により、五原則の著作者はすでに確定していた。
アークでは、屋上庭園と七階以上の一部通路が閉鎖された。正面玄関には「安全確認のため」と書かれた白い看板が立ち、屋上へ向かう案内表示は灰色の布で覆われている。植栽は人のいない空中で季節を進め、散水装置だけが毎朝決まった時刻に動いていた。
事業者が発表した最初の改修案は、閉鎖と撤去を中心にしたものだった。排水に問題のある植栽帯をすべて撤去し、屋上庭園を設備管理区域へ変更する。七階のガラス通路は壁で区切り、住宅部分の可変間取りについては、広告から「自由」という表現を削除する計画だった。
澪は会議室の長机で、その資料を一ページずつ読んだ。表紙には「安全性確保のための抜本的対策」と印刷され、工事費は百二十億円と見積もられている。撤去される植栽の本数、廃棄される造作家具、閉鎖後に使えなくなる共用部分の面積が、一覧表の末尾に小さく記されていた。
「これなら、同じ事故は起きません」
事業者の役員は、撤去範囲を赤く塗った図面を指した。屋上庭園の大半と、各階を結ぶ外周通路が赤い色で覆われている。水を流す場所も、人が集まる場所もなくせば、浸水と混雑は起こらなかった。
「同じ暮らしも、起きなくなります」
澪は屋上の図面を閉じた。閉鎖される共用部には、住民が朝に歩く遊歩道、保育施設の子供が土へ触れる場所、飲食店で働く人が休憩に使うベンチも含まれている。建物の欠陥を消すために、建物を使う理由まで取り除こうとしていた。
「久世先生の設計を残せとおっしゃるのですか」
「いいえ。利用者が直しながら使ってきた建物を、久世先生の所有物として扱わないでください」
「しかし、事故が再発すれば、責任を問われます」
「閉めれば責任がなくなるわけではありません。購入者と利用者へ約束した場所を、使える状態に直す責任が残ります」
役員は見積書を裏返し、指で机を二度叩いた。久世の設計をすべて撤去すれば、事業者は一人の建築家へ原因を集めることができる。しかし既存の建物を改修するなら、販売、施工、管理を担当した会社も、自分たちが見落としたものと向き合わなければならなかった。
西脇は会議の末尾で、別の資料を配った。アークの住民、テナント、施設職員を対象にした意見交換会の提案書だった。澪を改修計画の責任者とし、撤去を決める前に、残す場所と変える場所を利用者自身に選んでもらう内容である。
「設計者が作品を守るための会議にはしません。使う人が、自分たちの明日を決める会議にしてください」
澪が条件を告げると、西脇はうなずいた。会場は正面の大ホールではなく、地下の配送員休憩室と七階の空き店舗を交互に使うことになった。制服や作業着のままでも参加できるよう、開催時刻も早朝、昼、夜の三回に分けられた。
最初の意見交換会で、澪は完成予想図を壁へ貼らなかった。代わりに、アークの全階平面図を大きく印刷し、床へ並べた。参加者には赤、青、緑の三色の付箋を渡し、危険な場所、残したい場所、変えたい場所へ貼ってもらった。
屋上庭園には、三色すべてが集まった。排水溝と階段には赤、桜の見えるベンチには青、水道から遠い植栽帯には緑の付箋が重なった。植栽管理員の吉岡は、自動散水が届かない二十六か所を一つずつ指し、そこへ赤い印を付けた。
「全部なくす必要はありません。水を多く使う植物を減らし、乾燥に強いものへ替えれば、一人でも管理できます」
「桜は残せますか」
住宅棟に住む女性が尋ねた。夫が亡くなる前、二人で植樹式を見た木だという。吉岡は日当たりと根の状態を確かめ、排水層を直せば残せると答えた。
清掃員の永井は、七階の通路へ青と赤の付箋を一枚ずつ貼った。窓から見える夕焼けは残したいが、午後の熱と、カートが通れない混雑は変えてほしいという。警備員は、椅子を撤去するのではなく、日陰になる場所へ移してほしいと付け加えた。
保育施設の職員は、子供たちが屋上まで移動すること自体に時間がかかると話した。ベビーカーと散歩用の大型カートを使うため、エレベーターの乗り換えだけで十五分以上かかる。緑へ触れるために、子供を建物の最上部まで運ぶ必要はなかった。
「では、庭を下ろしましょう」
澪は八階から一階までの平面図を縦に並べた。屋上に集中している植栽を小さく分け、各階の使われていないテラスや広い踊り場へ移す。誰もが空へ上がる建物ではなく、緑が人のいる場所まで下りてくる建物に変える案だった。
四階の保育施設前には、子供の腰より低い花壇を設ける。七階の飲食店前には植栽を日射遮蔽として使い、ガラス面の外側へ水平ルーバーを加える。住宅階には住民が自分で世話のできる小さなキッチンガーデンを置き、屋上には管理できる範囲の樹木と遊歩道だけを残す。
避難経路も作り直した。庭園から戻る人と、商業階から下りる人が交差していた通路を分け、各階に一時待機区画を設ける。業務用エレベーターの一基を避難対応へ改修し、車椅子やベビーカーを使う人が、係員を探さなくても地上へ戻れる案内表示を加えた。
搬入口では、壁を壊さず、台車が曲がる角の造作収納を撤去した。防火扉の床金具を低い形式へ交換し、荷物を一時的に置く区画を床の色で分けた。相原が飲料水を積んだ台車を押すと、切り返さずに一度で角を曲がることができた。
「これだけだったんですか」
相原は台車を戻し、もう一度同じ角を曲がった。壁へ当たる音も、床金具へ車輪が乗り上げる振動もなかった。後ろで待っていた配送員が、腕時計を見ながら通過時間を記録した。
「一回で通れれば十九秒です」
「一日に百四十七回です」
「壁を壊すより、余計なものを置かないほうが早かったんですね」
地下の清掃員休憩室を横切っていた設備配管は、壁側へ移設された。工事のため一週間使えなくなったが、再開後は十二脚の椅子を同じ机へ並べられた。結露した水を受けていた布巾は、壁の棚で台拭きとして使われるようになった。
西側のガラス通路には、外付けの水平ルーバーと開閉式の日よけが設置された。夏の午後に四十一度を超えていた室温は、同じ外気条件で三十度台前半に収まった。警備員は一時間ごとの交代から二時間交代へ戻ったが、休憩と給水の回数は減らさなかった。
アークの住宅部分では、契約者ごとに間取りを再確認した。分電盤と空調制御盤を造作収納から切り離し、将来の変更時に収納だけを動かせるよう改修した。車椅子の男性と妻が希望した住戸には、寝室から浴室まで、一度も切り返さずに移動できる経路が作られた。
工事には八か月かかった。アークの正面には足場が組まれ、完成写真で一本に見えていた緑の帯は、何か所も途切れた。久世の建築を壊したという批判も出たが、澪は外観を守るために、使う人へ不便を戻す変更は一つも認めなかった。
改修費は四十八億円に収まった。撤去中心の案より七十二億円少なく、年間一億八千万円を超えていた追加管理費も、大半を減らせる見通しが立った。残った費用は、清掃員や警備員の人数を削るためではなく、休憩、点検、植栽管理を無理なく続けるために使われた。
再開の日、正面玄関では大きな式典を行わなかった。テープカットも、建築家の講演もなく、閉鎖していた扉が午前九時に開かれただけだった。最初に入ったのは、保育施設の子供たちだった。
四階の低い花壇には、ローズマリー、タイム、ミントが植えられていた。子供用の小さなじょうろは、水を入れても片手で持てる大きさだった。保育士が順番を決める前に、一人の子供がローズマリーの葉へ鼻を近づけた。
「お薬みたいな匂い」
「お肉を焼くときにも使えるよ」
植栽管理員の吉岡が答えた。子供たちは葉を強く引っ張らないよう、指で軽く触れてから水をやった。花壇の水は床へあふれず、余った分だけが下の貯留槽へ流れた。
各階には、撤去した観賞用の植栽に代わり、住民が世話をする小さなキッチンガーデンが作られた。紫蘇、分葱、ラディッシュ、バジル、パセリ、ミント、ローズマリー、イタリアンパセリ、トウガラシが、区画ごとに植えられている。大きな鉢にはレモンとブルーベリーを一本ずつ植え、実のなる時期が分かる札を付けた。
毎日水を必要とする植物や、専門家でなければ剪定できない樹木は増やさなかった。水道から遠い場所には乾燥に強いローズマリーやトウガラシを置き、日の当たり方に合わせて紫蘇、分葱、バジル、ラディッシュの区画を分けた。鉢の底には貯水層を設け、雨が降れば数日間は水をやらなくても根が乾きにくいようにした。
住民には一世帯ごとの畑を割り当てず、収穫できる人が必要な分だけ摘む決まりにした。朝には高齢の住民が味噌汁へ入れる分葱を二、三本切り、昼には飲食店の料理人が飾りに使うイタリアンパセリを摘んだ。夕方になると、保育施設の子供たちが赤くなったラディッシュを数え、まだ小さいものには土を戻した。
「ミントは増えすぎるから、必ず鉢の中だけですよ」
吉岡が説明すると、住民たちは鉢から伸びた茎を見つけるたびに鋏で切った。切った葉はガラス瓶の水へ入れ、七階の休憩所に置かれた。夜勤を終えた警備員は、その葉を水筒の冷たい水へ浮かべてから、日陰のベンチで鮭のおにぎりを開いた。
ブルーベリーに最初の実がついた朝、住民たちは誰が食べるかを決めるため、小さな札を枝へ下げた。けれど夕方には、鳥が一粒だけ残して食べていた。翌年からは実の半分へ網を掛け、残りは鳥の分としてそのままにすることになった。
完成予想図の屋上庭園には、季節に関係なく花が咲いていた。改修後の庭では、紫蘇に虫食いの穴が開き、分葱を切った跡が残り、収穫を終えたラディッシュの区画から黒い土が見えた。写真のために整えられた緑ではなく、朝食や夕食へ少しずつ減っていく庭になっていた。
七階のガラス通路では、永井が新しい清掃カートを押していた。左前輪だけが削れることはなく、片手を添えれば真っすぐ進んだ。以前のカートから外した三つの車輪は、建物の改修記録とともに、管理室の展示棚へ保管された。
屋上庭園には、すべての植栽を戻さなかった。管理できる樹木、住民が残したいと選んだ桜、雨水をためられる草地だけが残された。撤去した植栽の一部は各階へ移され、残りは近隣の公園や学校へ引き取られた。
片桐文枝の団地から株分けされたローズマリーも、四階の花壇へ植えられていた。文枝本人は長い距離を歩けないため、理恵と一緒に避難対応へ改修されたエレベーターで上がってきた。花壇の高さは、杖を持ったままでも手が届く七十五センチだった。
「うちのより、立派になったねえ」
文枝は葉を二枚こすり、指先の香りを理恵に嗅がせた。澪が隣に立つと、文枝は株分けした枝が足りたかと尋ねた。澪は、各階へ増やすには十分だったと答えた。
再開に合わせ、事業者は正面玄関へ新しい銘板を置くことを提案した。そこには、《榊原澪監修・新しい五原則による再生建築》と刻む案が示されていた。久世の名前を外した場所へ、澪の名前を入れる計画だった。
「私の名前だけなら、置かないでください」
「しかし、誰が改修したかを明らかにする必要があります」
「明らかにしてください。全員を」
澪は、搬入口を含む建物全体の案内図を作った。正面玄関だけでなく、配送口、清掃員休憩室、保育施設、キッチンガーデン、植栽管理室、避難経路が同じ太さの線で描かれている。余白には、改修へ参加した住民、作業員、施設職員、設計者、施工者の名前が、職種ごとに分けず同じ大きさで並べられた。
永井、相原、吉岡、西脇、保育士、警備員、住宅の契約者、設備担当者、大工、電気工事士の名前があった。澪の名前も、その途中に同じ活字で記されている。誰の名前も、正面へ大きく刻まれなかった。
案内図の下には、第五原則の全文が載せられた。
《建築は、見せたい方向だけでなく、全方向へ責任を持つ》
再開後、最初の日が暮れた。屋上庭園の照明は以前より少なくなり、建物の輪郭は完成写真ほど華やかには浮かび上がらなかった。その代わり、各階に下ろされた小さな庭の明かりが、住民のいる場所を一つずつ照らしていた。
澪は搬入口から外へ出た。台車は一度で角を曲がり、配送員は次の荷物を取りにトラックへ戻った。床に残っていた半円形の傷は消していなかったが、その上へ新しい傷が重なることはなかった。
久世は処分された。けれど建物には、処分という言葉の意味が分からない。閉鎖されれば使われず、壊されれば廃材になり、直されれば、翌朝からまた誰かの一日を支えるだけだった。
澪は正面玄関へ回らず、そのまま裏口から駅へ向かった。四階の花壇では、夕方の水を含んだローズマリーが、風に触れるたび細い葉を揺らしていた。建物を罰する代わりに直した人々の名前が、その下で同じ大きさに並んでいた。




