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第8話 五つ目の正面

第8話 五つ目の正面


 公開検証会の朝、アークの正面玄関には二つの列ができていた。一方は大学と事業者から招かれた建築関係者、もう一方は傍聴を申し込んだ入居予定者や施設利用者の列だった。ガラス外壁には秋の薄い雲が映り、屋上庭園の一部は浸水後の改修工事のため、白い仮囲いで覆われていた。


 澪は午前八時に搬入口から入った。六話の調査で測った壁の黒い筋は消されずに残り、配送用台車が今日も二度切り返して角を曲がっている。作業員は澪を見ると片手を上げたが、すぐに積み荷へ向き直った。


 会場となる一階ホールには、二百脚の椅子と長い壇上が用意されていた。正面スクリーンの左右にはアークの完成写真が飾られ、照明を受けた屋上庭園が緑の帯となって空へ続いている。スクリーンの下には、国際シンポジウムで展示された大型模型が置かれ、黄色い付箋が貼られていた場所だけ、植栽の一部が剥がれて白くなっていた。


 久世は開会一時間前に、三人の建築家と二人の評論家を伴って現れた。いずれも雑誌や大学でアークを評価してきた人物で、一人は竣工時の特集記事に「都市の地面を空へ持ち上げた記念碑」と書いていた。彼らの席は壇上中央に並び、澪の席は調査委員会を挟んだ最も端に用意されていた。


 久世は澪の前を通ったが、足を止めなかった。白いシャツの袖口から銀色の時計が見え、手には自著とアークの写真集が入った革鞄を持っている。澪の机には、透明な袋に入れた十二枚の絵葉書、調査資料、黄色い付箋の写真が並んでいた。


 午前十時、大学の副学部長が開会を告げた。検証の対象は三つだった。久世が発表した「二十一世紀の建築に必要な五つの責任」の成立過程、澪が主張する研究成果の盗用、そしてアークの設計思想と実際の運用との相違である。


 最初に、久世へ説明の時間が与えられた。久世は壇上中央へ立ち、背後にアークの正面写真を映した。屋上庭園の桜が満開になり、白い服の家族が緩やかなスロープを歩いている完成予想図だった。


「建築は、細部の不具合だけで評価されるものではありません。アークは分断された都市へ立体的な緑をもたらし、商業、住居、教育、文化を一つの地面でつないだ作品です」


 久世は、開業時の浸水は仮設物が点検口を塞いだことと、運営側の管理不足が重なった結果だと説明した。搬入口や休憩室の問題は、建築全体の価値を否定するものではない。住宅部分も、必要に応じて専門業者が改修すれば、家族構成の変化へ対応できると主張した。


「建築家が示すのは、未来の可能性です。個々の運用上の問題を集め、作品を失敗と決めつければ、新しい建築は生まれません」


 続いて、久世とともに登壇した評論家が発言した。アークの造形は、都市中心部に緑の稜線を作った点で高く評価されるべきだという。別の建築家は、歴史的な建築にも完成後の修正はあり、現代の安全基準だけで芸術的価値を裁くべきではないと述べた。


 傍聴席では、資料をめくる音が続いた。清掃員の永井は最後列に座り、削れた車輪を足元へ置いていた。片桐文枝の娘である理恵は、六畳の改修前後を記録した報告書を膝に載せていた。


 久世は最後に、五原則の成立について説明した。研究室では日常的に学生と議論し、所属者の調査結果から指導者が研究を発展させることは珍しくない。澪の観察も参考にしたが、提言として体系化し、アークの設計思想へ結び付けたのは自分だと述べた。


「若い研究者の成長を、自分の成果を奪われたと受け取ることがある。指導上の行き違いは認めますが、盗用という言葉は適切ではありません」


 久世は用意した原稿を閉じた。壇上の建築家たちが小さくうなずき、司会者が澪の発表を告げた。澪は革鞄も写真集も持たず、透明な資料袋を一つ抱えて演台へ向かった。


 最初に映したのは、建物の写真ではなかった。白い画面の中央へ、十二の日付を縦に並べた。最も古いものは、久世研究室へ入る二年八か月前だった。


「私は、五原則が優れているかどうかを、最初に証明するつもりはありません。誰が、いつ、どこで、この言葉を書いたかを示します」


 澪は一枚目の絵葉書を映した。表にはフランスの集合住宅、裏には閉鎖された屋上庭園と、住民が水をやる地上の花壇について書かれている。消印、撮影した写真の時刻、航空券、宿泊記録を一つの画面へ並べた。


 二枚目はインドから出した葉書だった。「光だけを設計して、暑さを使う人へ処理させてはいけない」という文章が残っている。九枚目には、間取りを「あとから選び直せる」ようにする考えが書かれ、十二枚目には五原則の原型がすべて並んでいた。


 会場の側面に、原本確認用の机が設けられた。調査委員会の外部委員は、消印の位置、インクの状態、同時期の写真と筆跡を事前に確認している。複数の国の郵便事業者にも照会し、消印の形式が当時のものと一致するという報告が添えられていた。


「旅先から日本の自宅へ出したものです。私は長い記録を一度に整理するのが苦手だったため、一日に一つだけ、見つけたことを書いて送りました」


 久世は手元の資料をめくった。建築家の一人が隣の評論家へ何かを囁いたが、マイクには入らなかった。澪は次の画面へ進んだ。


 大学の情報管理部門が、共有サーバーのバックアップを復元していた。澪の研究フォルダには、「五原則・初期整理」という文書があり、作成日は国際シンポジウムの三年前、作成者は榊原澪となっている。本文には、絵葉書から発展させた五つの原則と、現地調査で得た事例が記録されていた。


 その文書は、シンポジウムの二十三日前に別のフォルダへ複製されていた。操作に使われたのは、久世の教授用アカウントだった。複製された文書は十七回更新され、題名が「二十一世紀の建築に必要な五つの責任」へ変更されていた。


「共有サーバー上の資料を、研究室の責任者が閲覧すること自体は不自然ではありません。問題は、変更後の内容です」


 画面が二つに分かれた。左には澪の初期文書、右には久世が国際シンポジウムで使った原稿が表示された。同一の語句には青、削除された箇所には赤、追加された宣伝的な表現には金色が付けられている。


 澪が書いた「災害時に、自分の力で地面へ戻れること」は、「すべての人を大地と空へ導く」へ変えられていた。「子供の手が届く高さに緑があること」は、「緑を生活の一部へ戻す」と短くされていた。「病気、老い、介護による暮らしの変化」は、「家族と働き方の変化」に置き換えられている。


 書き換えのたび、具体的な人間の身体が消えていた。階段を下りられない脚、暑さに耐えられない乳児、介護ベッドを置く家族、台車を押す作業員が削られ、空、大地、未来、自由という言葉だけが残された。アークを販売するための五原則は、暮らしを守る条件から、建物を飾る標語へ変わっていた。


 久世がマイクを取った。


「研究室の共有データを、設計提案に適した言葉へ編集しただけだ。指導者が学生の未整理な考えを社会へ提示できる形へ直すことは、研究活動の一部だ」


「編集者として、先生のお名前を加えることはできます」


 澪は久世のほうを見た。壇上の机には、共同研究者一覧が印刷されたパネルが置かれている。三人の准教授と海外協力者の名前はあるが、澪の名前だけがなかった。


「けれど編集したからといって、最初に書いた人の名前を消すことはできません」


「君の文書は研究室の資金と設備で作られたものだ」


「一枚目の絵葉書は、研究室へ入る前に、自費で訪れた建物から送りました。先生が提供したという場所、資金、人脈より先に、この日付があります」


 会場の正面画面へ、十二枚目の絵葉書が再び映った。久世研究室へ入る前の消印と、五原則の文章が同じ画面に収まっている。久世はマイクへ手を置いたまま、次の言葉を出さなかった。


 調査委員会の委員長が、サーバー記録について補足した。久世のアカウントから文書を複製した翌日、元のファイルに対する澪の編集権限が外されていた。シンポジウム開催後には、作成者情報を含む履歴の削除操作が行われている。


「削除操作は失敗しています。通常画面からは見えなくなっていましたが、大学の保全用バックアップに履歴が残っていました」


 西脇が事業者側の資料を提出した。国際シンポジウムで澪から受け取った日射と避難動線の資料には、全ページに氏名と作成日がある。久世側から事業者へ渡された資料では、その氏名欄だけが切り取られ、研究室名へ変更されていた。


 さらに、シンポジウム当日の模型写真が正面スクリーンへ映された。緑の屋上庭園には、澪が貼った黄色い付箋が残っている。黒い文字で「通行不能」と書かれ、画像の撮影時刻と保存先が表示された。


「当社では、この指摘を受けた日から設計上の照会記録を残しています」


 西脇は、久世へ送った質問書と回答を読み上げた。スロープと消防設備の干渉について、久世側は「完成予想模型上の演出であり、実際の利用を想定したものではない」と答えていた。一方、購入予定者へ配られた広告には、同じスロープを車椅子利用者が通れる経路として表示していた。


 壇上にいた建築家の一人が、久世へ顔を向けた。


「私は、実際に利用できる経路だと説明を受けました。だから批評にも、空中の地面を誰もが共有できると書きました」


「模型表現の細部について、批評家へすべて説明することはできない」


「これは細部ではありません。あなたの作品を評価する根拠でした」


 久世の隣に座っていた評論家が、自分の資料を閉じた。先ほどまでアークの芸術性について語っていたが、もうマイクへ手を伸ばさなかった。正面写真だけを見て書かれた批評もまた、裏側の労働と使用不能な動線を知らずに作られていた。


 澪は発表の最後に、第五原則の更新履歴を表示した。最初の文書には、久世の発表から完全に削除された文章があった。赤い枠で囲われた三行が、スクリーンの中央へ拡大された。


《建築家は、正面だけを撮影して作品と呼んではならない。裏側で運び、掃除し、直し、育てる人へ、設計上の負担を押しつけてはならない。建築は、見せたい方向だけでなく、全方向へ責任を持つ》


 会場の照明が少し落ちた。澪はアークの正面写真を消し、六話の調査で撮った写真へ切り替えた。台車が一度で曲がれない搬入口、設備配管に塞がれた清掃員休憩室、給水口から百八十三歩離れた植栽、四十一度を超えたガラス通路が順に映った。


 最後に、屋上庭園から茶色い水が流れ込んだ通路を映した。床には剥がれたパンフレットが浮き、非常扉の向こうには段ボールが積まれている。完成予想図に描かれた青空も、白い服の家族もなかった。


 澪は演台を離れ、印刷した第五原則を一枚持って、久世の席まで歩いた。久世の前には自著とアークの写真集が重ねられている。澪はその上へ、第五原則の全文を置いた。


「先生が自由にしたかったのは、ファサードではありません。ご自分の責任です」


 久世は紙を払いのけなかった。反論のために持ち上げていたマイクを、ゆっくりと机へ戻した。正面スクリーンには、華やかな建物の写真ではなく、削れた台車の車輪が大きく映っていた。


 調査委員会は休憩を挟み、午後四時に見解を発表した。五原則の主要な概念と文章は、澪が久世研究室へ所属する以前から形成しており、その著作者は榊原澪であると認定された。久世による無断使用、著作者名の削除、共有サーバーの履歴を消そうとした操作は、研究成果の不適切な流用にあたるとされた。


 事業者も、実現しないスロープを広告へ掲載したこと、運用上の負担を把握しながら公表しなかったことを認めた。アークの全動線と維持管理計画を再検証し、設計監修者の権限を一時停止すると発表した。久世の名前が入った宣伝物は、その日のうちに配布を停止された。


 閉会後、係員が壇上を片づけ始めた。アークの大型模型も運び出されることになったが、西脇は植栽の端に残っていた黄色い付箋を剥がし、透明な資料袋へ入れた。紙は乾いて反り、黒い文字の一部が薄くなっていた。


「これは、榊原さんの資料として保管してください」


 澪は付箋を受け取り、十二枚の絵葉書と同じ袋へ入れた。大きな模型の上では、小さな白い人形が、使えないスロープへ向かったまま立っている。けれど黄色い紙だけは、その道が通れないことを、最初から記録していた。


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