↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
7/11

第7話 自由な平面に住めない家族

第7話 自由な平面に住めない家族


 アーク住宅棟の内覧会は、公開討論会と同じ日に行われた。販売センターの入口には、「住む人とともに変化する、百年住宅」という幕が掲げられ、受付では白い手袋を着けた係員が来場者へ間取り図を配っている。紙の中央には、柱と外壁だけを残して室内の壁が消えていく三枚の図が並び、「自由な平面」という言葉が金色で印刷されていた。


 澪は調査協力者の名札を胸に付け、一般の来場者と一緒にモデルルームへ入った。玄関には天井まで届く造作靴箱があり、間接照明が白い床を照らしている。奥の居間では、細い脚のソファとガラスのテーブルが、窓の外に広がる屋上庭園を遮らないよう配置されていた。


 係員は、家族構成に合わせて間取りを自由に変更できると説明した。子供が生まれれば居間の一部を仕切り、独立したあとは壁を外して広く使える。長い映像の中では、若い夫婦が乳児を抱き、次の場面では成長した子供が机へ向かい、最後には白髪になった夫婦が広い居間で茶を飲んでいた。


「壁は、どこでも外せるのですか」


 見学者の一人が尋ねた。三十代ほどの女性で、車椅子に乗った夫と一緒に来ている。係員は笑顔のまま、主要な間仕切りは変更できると答えた。


「将来、介護ベッドを置くことになっても対応できますか」


「自由設計を理念とした住宅ですので、さまざまな暮らし方へ対応いたします」


「寝室から浴室まで、車椅子で行けますか」


「詳しい変更につきましては、ご契約後に設計担当者とご相談いただけます」


 女性はそれ以上聞かず、夫の車椅子を押して廊下へ入った。廊下の有効幅は九十センチほどあり、真っすぐ進むだけなら問題はなかった。しかし洗面室へ入る角には造作収納が張り出し、車椅子は一度で曲がれなかった。


 夫は片手で車輪を後ろへ回し、向きを変えてから入り直した。洗面室の引き戸を開けると、内側には収納棚の扉があり、両方を同時には開けられない。係員は、モデルルーム用の家具配置なので、実際には調整できると説明した。


 澪は壁際に立ち、天井の吹き出し口と床の点検口を見た。空調は天井内に隠され、各室へ細いダクトで分配されている。水回りの配管は床下を通るが、点検と勾配のため、浴室、便所、台所の位置はほとんど動かせなかった。


 壁を外すことはできても、空調の吹き出し口は元の部屋割りのまま残る。二部屋を一つにすれば、一方は冷えすぎ、もう一方は温度が上がりやすくなる。造作収納には照明の配線と空調の制御盤が組み込まれ、撤去すれば別の工事が必要だった。


 澪は間取り図の余白へ、配管、ダクト、配線、収納の位置をそれぞれ違う色で書き込んだ。自由に動かせると説明された壁の大半が、何かを隠し、何かを支え、何かと接続されている。図面上で壁だけを消しても、暮らしを変えられる空間にはならなかった。


 モデルルームの寝室では、七十代の女性と息子夫婦がベッドの周囲を測っていた。女性は現在、一人で生活しているが、数年後には息子夫婦との同居を考えているという。係員から渡された変更例では、居間を壁で分け、窓のない側を女性の寝室にする計画になっていた。


「ここへ介護ベッドを置いたら、左右から人が入れますか」


 息子の妻が尋ねた。係員は図面へ定規を当てたが、造作収納と壁の間には、ベッド一台と四十センチほどしか残らない。介助者が両側へ回るためには収納を撤去しなければならず、その中には分電盤が組み込まれていた。


「分電盤を移せば、収納も外せます」


「いくらかかりますか」


「詳細なお見積もりは、ご契約後となります」


「契約してから、暮らせないと分かるんですか」


 係員の手が図面の上で止まった。見学者の列が後ろにでき、別の係員が次の部屋へ進むよう声を掛けた。七十代の女性は、窓のない寝室予定地に立ち、天井の小さな照明を見上げていた。


 午後二時から、住宅棟の共用ホールで公開討論会が開かれた。題目は「自由な平面は、現代の家族をどう受け入れるか」で、久世、住宅販売会社の責任者、澪、福祉住環境を研究する准教授が登壇した。会場中央には住宅一戸分の大型模型が置かれ、天井からカメラが模型を映していた。


 久世は最初に、ル・コルビュジエの自由な平面について説明した。構造を柱と梁が担えば、室内の壁を構造から解放できる。家族の変化に合わせて間取りを変えられることが、近代建築から現代へ受け継がれた自由だという。


「建築は、機能を満たすだけの箱ではありません。人間は美しい空間に住むことで、初めて豊かに生きられるのです」


 背後の画面には、アーク住宅棟の居間が映された。白い壁、庭園へ続くような横長の窓、床から浮いて見える造作収納が、一本の水平線を作っている。会場の照明が落とされると、完成写真の中から生活用品の色が消えた。


 続いて澪の案が画面へ映された。同じ床面積に、可動収納、引き戸、複数の電源位置、交換可能な空調部材を組み合わせた平面図だった。設備を一か所へ固めず、家族の変化に応じて小さな単位で付け替えられるようにしてある。


 久世は図面を一度見ただけで、マイクを取った。


「榊原君の案は、車椅子や介護ベッドを基準にしている。安全への配慮は必要だが、これでは住宅というより、福祉施設の発想だ」


 会場の前方で、内覧会に来ていた車椅子の男性が顔を上げた。久世はその方向を見ず、澪の図面に並ぶ可動部材を指した。


「設備を露出させ、壁を動かし、どこにでも手すりを付けられるようにすれば、建築としての統一感は失われる。美しさを犠牲にしてまで、あらゆる状態へ備える必要があるのだろうか」


 司会者が澪へ反論を求めた。澪はマイクを持ったが、久世の言葉へすぐには答えなかった。代わりに中央の大型模型へ歩き、白い部材が入った三つの箱を机の上へ並べた。


「この模型は、七十二平方メートルです。アークで販売されている三LDKと同じ床面積、同じ柱位置、同じ窓の大きさにしてあります」


 白い模型には、外壁と柱、台所、浴室、便所だけが固定されていた。それ以外の壁、収納、扉は、細い溝へ差し込む部材になっている。空調の吹き出し口は一部屋に一つではなく、細い帯状の設備レールへ付け替えられる仕組みだった。


「最初は、一人で暮らす場合です」


 澪は会場の時計へ目を向け、三分間の計時を始めた。寝室と仕事場を緩やかに分け、窓際へ長い机を置き、来客時だけ引き出せる壁を収納の中へ収めた。収納は壁を兼ねるため、部屋の中央へ置いても、外周へ寄せても使うことができた。


 二分十四秒で、単身者用の間取りが完成した。玄関から居間までの視線は収納で遮られ、台所から窓までは風が抜ける。澪は模型の中へ小さな椅子と机を置き、照明を点けた。


「次は、子供が二人いる家族です」


 壁を一枚抜き、収納を九十度回転させた。窓側に二つの小さな寝床を作り、その間の壁は机として倒せる。居間から子供の気配は分かるが、眠る時間には引き戸を閉められる間取りになった。


 二分三十八秒で、二つ目の住まいが完成した。部材の表面はすべて白く、閉じれば一枚の壁に見える。開けば机、棚、手すりになり、必要のない機能は内部へ収まった。


「三つ目は、一人が在宅介護を受ける家族です」


 澪は子供部屋を分けていた収納を外し、寝室と居間の境へ移した。介護ベッドの両側へ人が入れる幅を確保し、寝室から便所まで、車椅子が一度も切り返さずに進める経路を作った。引き戸を閉めれば介護を受ける人の寝床は居間から見えず、開けば台所にいる家族と会話できた。


 二分五十二秒で、三つ目の間取りが完成した。澪は三つの状態を上から撮影した画像を、画面へ並べた。床面積も窓も設備の数も変わらず、変えたのは壁と収納の位置だけだった。


「手すりも介護ベッドも、常に見える必要はありません。使う人が必要になったとき、自分で選び、付けられればよいのです」


 久世は腕を組み、模型を見下ろした。


「模型だから簡単に動かせる。実物では、壁の重量も、配線も、空調もある」


「そのために、最初から動かすことを前提に設計します。壁を動かせると広告に書き、動かしたあとで設備を使えなくするのではありません」


「私の案でも間仕切りは撤去できる」


「では、同じことをお願いします」


 澪は机の反対側に置かれた、アークの販売用模型を指した。久世の設計を説明するために用意されたもので、壁の一部を取り外せるようになっている。司会者が久世へ確認すると、久世は椅子から立ち、模型の前へ移動した。


 久世は子供部屋と居間の間の壁を外した。すると壁の上部につながっていた空調の吹き出し口も一緒に取れ、子供部屋側には空調のない空間が残った。外した壁を別の位置へ置こうとしたが、床から動かせない造作収納に当たり、模型の溝へ入らなかった。


「実際の工事では、空調設備を移設する」


「その費用は、販売価格に含まれていますか」


 住宅販売会社の責任者が資料を確認した。間仕切りの撤去費用は記載されているが、ダクトの変更、分電盤の移設、造作収納の撤去は別工事になっている。居間を広げるだけでも、追加費用は一千万円を超える可能性があった。


 内覧会に来ていた七十代の女性の息子が、客席から手を挙げた。


「母の部屋を作るには、分電盤を動かさなければならないと言われました。契約後にしか金額を出せないそうですが、それも『自由な平面』の費用ですか」


 続いて、車椅子の男性の妻が立った。手には、係員から渡された間取り図がある。洗面室へ曲がれなかった場所に、赤い丸が付けられていた。


「壁を外せるかではなく、夫が浴室まで行けるかを聞いています。私たちは、福祉施設に住みたいのではありません。二人で普通に夕飯を食べて、普通に風呂へ入りたいだけです」


 会場の後方から、別の入居予定者も質問した。子供が独立したあとの改修費、親との同居が始まった場合の工事期間、空調設備を移す間に仮住まいが必要か。広告に書かれた「自由」が、次々と具体的な金額と日数へ置き換わった。


 住宅販売会社の責任者は、壇上で久世へ資料を示した。販売開始前に、可変間取りの実現性について説明を受けていたが、設備移設の費用までは共有されていなかったという。すでに申込金を受け取った住戸について、契約内容と広告表示を再確認すると発表した。


「設計監修側には、変更可能とされた全間取りについて、実施工事費と工期をご提示いただきます。追加改修が必要な場合、その負担についても協議させてください」


「販売条件は、設計者が決めることではない」


「変更できるという説明は、久世先生の設計思想に基づいて作られています。実現できなければ、当社だけの問題にはできません」


 久世の前には、壁を外したままの模型が残っていた。空調のない部屋、収納にぶつかった壁、移動できない分電盤が、白い部材の間から見えている。完成写真では消されていた設備が、模型の中で暮らしの行き先を塞いでいた。


 澪は自分の模型を元の一室空間へ戻した。九分間で三つの暮らしへ変化した部材は、再び白い箱の中へ収まった。外から見れば、久世案より装飾が少なく、窓の水平線も乱していなかった。


「安全と美しさは、どちらかを諦める関係ではありません」


 澪は可動収納の扉を閉じた。手すり、机、棚は表面から消え、一枚の白い壁になった。会場の照明を受け、模型の中へ窓から細長い光が差した。


「暮らす人が変わるたびに、美しさを壊して工事をするのではなく、変わった暮らしまで美しく収める。それが自由な平面です」


 公開討論会のあと、住宅販売会社は契約予定者への個別説明会を開いた。久世案の変更費用が確定するまで、本契約の締結は延期された。すでに申込金を払った人には、無条件で返金を受ける選択肢も示された。


 車椅子の男性と妻は、澪の模型の前に残った。妻が模型の寝室から浴室まで指で経路をたどると、男性は車椅子の上で身体を少し傾け、窓際の小さな食卓をのぞき込んだ。


「ここなら、私が先に風呂へ入っても、妻が後ろで待たなくて済みますね」


「台所にも二方向から入れます。二人で料理をするときも、通路を譲り合う必要はありません」


「私たちが欲しいのは、こういう普通なんです」


 二人が帰ったあと、澪は白い模型を布で包んだ。三つの暮らしへ変わる部材には、手で何度も動かした細い跡が付いている。久世は澪の設計を福祉施設の発想と呼んだが、その日模型へ手を伸ばしたのは、介護を受ける人だけではなかった。


 子供を抱いた夫婦、一人暮らしを始める女性、老いた母親との同居を考える家族が、同じ白い壁を動かした。自由とは、何も置かれていない広い部屋ではなかった。明日の自分が変わっても、そこから追い出されないことだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。