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第6話 裏口から建築を測る人々

第6話 裏口から建築を測る人々


 十二枚の絵葉書を大学へ提出した翌日、澪のもとへ海外の研究者を紹介するというメールが二通届いた。一人はロンドン、もう一人はスイスの大学で建築史を教えており、久世の研究姿勢について以前から疑問を持っていると書かれていた。どちらも建築界では知られた名前で、協力を得られれば、調査委員会の判断に影響を与えられるかもしれなかった。


 澪は返信を書きかけ、下書きのまま閉じた。久世が大学教授という肩書を使うなら、自分も別の権威を連れてくればよいという考えは、相手の名前を借りて発言の重さを変える点で同じだった。六畳の部屋の床では、透明な袋に入れた絵葉書が、消印の日付順に並んでいた。


 机の端には、片桐文枝からもらったローズマリーの鉢が置かれている。水をやるには、台所から窓まで七歩だった。澪は小さな水差しを戻し、海外の研究者二人へ、資料を読んでもらうことはお願いするが、自分の代わりに久世を批判する必要はないと返信した。


 その日の午後、アークの西脇から電話があった。先日の浸水を受けて、開発会社が建物の運用状況を調べることになり、施設側から澪へ参加を依頼したいという。大学からはアークへ立ち入らないよう求められていたが、建物の所有者が正式に委嘱する調査まで、久世研究室が禁じる権限はなかった。


「条件があります。久世先生の設計意図を確認する調査には参加しません。ここで働く人が、実際にどう建物を使っているかを調べます」


「会社としても、それを知りたいのです」


「報告書には、聞き取った人の肩書ではなく、作業時間と測定値を残します。都合の悪い数値も削除しません」


「分かりました。現場責任者にも、その条件で説明します」


 調査初日、澪は正面玄関ではなく、午前六時に搬入口からアークへ入った。空はまだ薄暗く、屋上庭園の照明だけが建物の輪郭を浮かせている。搬入口にはパン店の小麦粉、飲食店の野菜、保育施設の紙おむつを積んだトラックが、道路へはみ出すように並んでいた。


 案内役を務めたのは、配送管理を担当する相原だった。彼は腰から鍵の束を下げ、三分おきに鳴る無線へ返事をしながら、搬入口の角へ澪を連れていった。壁には、台車の金属がこすれた黒い筋が、床から四十センチほどの高さに何本も付いていた。


「ここだけ幅が狭いのですか」


「幅ではなく、角度です。試しに、この台車を曲げてみてください」


 相原が渡した台車には、飲料水の箱が六段積まれていた。澪が取っ手を押して左へ曲がろうとすると、先端が壁に当たった。壁を避けて大きく回せば、今度は後輪が防火扉の床金具へ乗り上げた。


 一度台車を手前へ引き、角度を変えて押し直さなければ通れなかった。配送員は一日に平均百四十七回、同じ切り返しを行っている。壁に近い側の車輪だけが削れ、台車は真っすぐ押しても少しずつ左へ寄った。


「図面では、台車の長さが入っていないんです。人が歩ける幅だけで描かれています」


「曲がるための空間は、通路の幅とは別に必要です」


「開業前にも言いました。でも、搬入口は表から見えないから、完成後に考えると言われました」


 澪は床へ目印を置き、一台が角を通過する時間を十回計った。荷物のない台車なら平均十九秒、飲料水を積むと平均四十六秒かかる。後ろに別の配送員が並べば、その人数分の時間が加わり、朝の二時間だけで百三十分を超える待ち時間が発生していた。


 次に会ったのは、屋上の植栽を管理する吉岡だった。彼は首へ白いタオルを巻き、散水用のホースを載せた台車を押していた。自動散水装置があるのに、なぜホースが必要なのかと澪が尋ねると、吉岡は北側の階段を指した。


「木の根元まで水が届かない場所が二十六か所あります。風が強い日は、散水した水が通路へ飛ぶので止めなければなりません」


 最寄りの給水口から、一番遠い植栽帯までは百八十三歩あった。ホースを延ばすには途中で二本をつなぎ、来場者がつまずかないよう、作業員が一人ずつ立って見張る必要がある。水やりそのものより、ホースを運び、つなぎ、通行人を避け、片づける時間のほうが長かった。


 吉岡は枯れかけた低木の葉を一枚つまんだ。開業式の映像では満開の花が重なるように描かれていたが、実際には日陰を好む植物と、強い日差しを必要とする植物が、外観の色を優先して同じ区画へ植えられている。場所ごとに水量を変えられず、片方に合わせれば、もう片方が弱った。


「植物の選定に意見は出せなかったのですか」


「植栽業者は出しました。でも、完成予想図と色が違うと言われて戻されました」


「誰からですか」


「設計監修です。紫色の花が必要だと」


 澪は花の色を記録せず、給水口からの歩数、ホースの長さ、作業人数、散水にかかる時間を測った。吉岡が一日に上り下りする階段は、平均で千八百六十段あった。外からは一本の緑の帯に見える庭園が、働く人にとっては、給水口から遠く離れた二十六の区画に分かれていた。


 午前十時には、清掃員の永井と七階のガラス通路を歩いた。永井は屋上庭園の騒動で、通路を通れずに立っていた女性だった。あの日と同じカートを押しており、左前輪のゴムだけが斜めに削れている。


「お借りしてもいいですか」


「このままだと、左へ曲がりますよ」


 澪が押すと、カートは三メートルほどで壁側へ寄った。永井は右腕へ力を入れ、常に左へ流れる車体を戻しながら押していた。搬入口の角と床金具を毎日越えるうち、片側の車輪だけが傷んだという。


「新しい台車に替えても、また同じになります。それで、申請が通らなくなりました」


 澪は車輪の直径と削れた部分を測り、カートを押す際の姿勢を横から撮影した。永井の右肩は左より上がり、通路の終点まで進むと、取っ手を握っていた指に赤い線が残った。一日三回の清掃で、カートを押す距離は合計四・八キロメートルになった。


 清掃員の休憩室は、地下の設備区画にあった。八畳ほどの部屋の中央を太い配管が横切り、天井の低い場所では、身長の高い人なら頭をぶつける。配管を避けて置かれた長机には椅子が六脚しかなく、十二人の清掃員は休憩時間を二回に分けていた。


「配管は最初から、この位置だったのですか」


「図面では壁側でした。工事中に変更されたそうです」


「休憩室を別の場所へ移す案は」


「空いている部屋は、店に貸せるそうです。ここはお客さんから見えませんから」


 弁当箱を開くと、配管の結露が机の端へ一滴落ちた。永井は慣れた手つきで布巾を置き、梅干しの入ったおにぎりを食べ始めた。澪は休憩室の寸法を測り、配管の下を通るたびに作業員が頭を下げる回数を数えた。


 午後一時、ガラス通路の室温は三十六・八度だった。午後二時には三十九・二度、三時十二分には四十一・一度まで上がった。空調の吹き出し口から冷たい風は出ていたが、ガラス面から入る日射に追いつかず、床の表面温度は四十六度を超えていた。


 警備員は一時間ごとに持ち場を交代していた。開業当初は二時間交代だったが、二人が体調を崩してから時間を短くしたという。そのため交代要員が追加され、警備会社への委託費が当初の契約額より増えていた。


「客には、なるべく立ち止まらないよう声を掛けています」


「景色を見るための通路なのにですか」


「立ち止まると、具合が悪くなる方が出ます。椅子も熱を持つので、午後は撤去しています」


 澪は日陰に置いた温度計と、ガラス脇の温度計を並べた。差は八・六度あった。久世が「光を建物全体で分かち合う」と説明した場所では、光と一緒に入った熱を、警備員の交代回数と空調の電気代で処理していた。


 最後に訪ねたのは、八階の保育施設だった。保育士は子供たちが昼寝をしている間に、西側の窓へ銀色の遮熱シートを貼っていた。設計者からは景観を損なうため外さなければならないと言われたが、午後になると窓際の床が熱くなり、乳児を寝かせられなかった。


「カーテンでは駄目なのですか」


「熱が室内へ入ったあとでは、カーテン自体が熱くなります。窓に近い子だけ、汗でシーツが濡れるんです」


 保育士は、子供たちの布団の位置を記録した表を見せた。窓側に寝かせた日の体温上昇、寝汗で交換したシーツの枚数、午後に移動させた回数が、三週間分残っている。澪は子供の名前を写さず、窓からの距離と室温、移動回数だけを記録した。


 調査は十日間続いた。澪は、困っていることを自由に話してくださいとは言わなかった。最初に普段どおり仕事をしてもらい、歩数、時間、距離、温度、荷物の重量、転倒や接触の回数を測った。


 聞き取りの言葉も、測定値と組み合わせた。配送員が「遠回りだ」と言えば余分な距離を測り、清掃員が「疲れる」と言えばカートを押す時間と交換部品を調べた。植栽管理員が「水が届かない」と言えば、給水口からの歩数と追加人員を数えた。


 西脇から、アークの管理費と委託契約のうち、公開可能な資料が渡された。澪は当初計画と開業後の実績を比較し、建物の使いにくさを補うために増えた費用だけを抜き出した。搬入作業の延長、植栽管理の追加人員、警備員の交代要員、清掃カートの修繕、夏季空調の増加分、保育施設の遮熱対策、混雑整理の人件費を積み上げた。


 年間換算の合計は、一億八千二百六十万円になった。広告費や開業時の一時的な費用は含めず、設計どおりに建物を使い続ける限り、毎年発生するものだけを計算した。最も大きかったのは空調費ではなく、作業員が遠回りし、待ち、持ち替え、交代するための人件費だった。


 中間報告会は、アーク一階の公開ホールで開かれた。久世も設計監修者として招かれ、前方の席に座っていた。澪が調査方法を説明すると、久世は質疑応答が始まる前に手を挙げた。


「清掃員や配送員の話を集めたそうだが、彼らは建築の専門家ではない。個人的な感想を設計評価へ持ち込むのは、研究としてあまりに粗雑ではないかね」


 会場の後方には、永井、相原、吉岡、警備員、保育士が座っていた。作業時間の都合で全員は来られず、制服や作業着のまま壁際に立つ人もいた。澪は彼らを振り返らず、画面へ最初の表を映した。


「配送用台車は、一日に平均百四十七回、搬入口で切り返しています。一回あたりの余分な時間は、積載時で平均二十七秒です」


 次の画面には、植栽への給水経路が表示された。最も遠い区画まで百八十三歩あり、ホースを通路へ延ばすために追加の監視員が必要になる。ガラス通路の画面には、午後三時十二分、室温四十一・一度、床表面温度四十六・三度という数字が並んだ。


「清掃カートの左前輪は、六週間で使用限度を超えました。警備員の配置は、二時間交代から一時間交代へ変更されています。保育施設では、三週間で窓際の布団を二十八回移動しました」


「それらは運用で調整する問題だ。複雑な建築では、完成後の調整は当然発生する」


「はい。調整には、人と時間と費用が必要です」


 澪は年間管理費の比較表を映した。当初計画と現在の運用を二本の棒で示し、増加分だけを赤くした。会場の前方で、開発会社の役員が資料へ顔を近づけた。


「設計上の無理を、人の作業で補っている費用は、年間一億八千二百六十万円です。設備更新や物価上昇は含めていません」


「建築の価値を、金額だけで判断するのかね」


「金額だけではありません。この一億八千万円の中身を測りました」


 澪は最後の画面へ切り替えた。そこには、正面から撮影したアークの写真ではなく、壁に付いた台車の跡、給水口から遠い植栽、配管の下へ置かれた休憩室の机、銀色の遮熱シートを貼った保育室の窓が並んでいた。


「これは感想ではありません。先生が図面から消した労働時間です」


 久世は手元の冊子を閉じた。質問を続けようとしたが、西脇が先に立ち上がり、管理費の算出根拠は開発会社の記録と一致していると説明した。会場後方では、配送員の相原が、削れた車輪を足元へ置いていた。


 報告会のあと、永井は清掃カートを澪へ貸した。調査資料として保管し、新しいカートが届くまでに車輪の摩耗を詳しく測ってほしいという。左前輪は片側だけが削れ、床へ置くと、四つの車輪が同時には接しなかった。


「この車輪も、研究になるんですか」


「毎日同じ場所で削れたのなら、建物の形を記録しています」


 澪が答えると、永井は予備の車輪をカートの棚から取り出した。透明な袋には、過去二か月で交換した三個が入っている。どれも同じ側だけが、同じ角度で削れていた。


 澪はカートを押し、客のいない搬入口から外へ出た。正面玄関の照明は夕方の空を照らし、階段状の庭園は道路の向こうから一本の緑の帯に見える。裏口の床には、今日も台車が切り返した半円形の跡が、何重にも残っていた。


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