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第5話 建物は黙っていない

第5話 建物は黙っていない


 大学の聞き取りは、屋上庭園の騒動から六日後に行われた。会議室の長机には、研究倫理を担当する副学部長、事務職員、外部委員の弁護士が座り、机の中央には録音用の小さな機器が置かれている。澪の前には水の入った紙コップと、事前に提出した二十七枚の資料が並べられていた。


 窓の外では、剪定作業員が銀杏の枝を切っていた。枝が一本落ちるたび、葉がガラスの向こうを横切り、地面から乾いた音が聞こえる。澪は紙コップへ口をつけたが、水は暖房の風でぬるくなっていた。


「榊原さんは、『現代の五原則』という研究ノートを久世教授に持ち去られたと主張していますね」


「はい。研究室の自分の机に置いていたノートがなくなり、十二日後、ほぼ同じ内容が久世教授の提言として発表されました」


「ノートの写しはありますか」


「ありません。手書きの原本だけです」


 副学部長は資料をめくり、澪が提出した写真一覧と渡航記録を確認した。そこには世界各地の建築物を調査した日付と、撮影した写真の番号が記されている。しかし、失われたノートに何を書いたかを直接示すものではなかった。


「電子データは残していなかったのですか」


「調査結果の一部は、研究室の共有サーバーへ保存していました。現在、私のアクセス権限は停止されています」


「保存日時と作成者の情報はこちらで確認します。ただし、大学の設備を利用して作成されたデータについては、研究室との共同成果と判断される場合があります」


 澪は膝の上で指を組み直した。画像ファイルの作成者名には自分の名前が残っていても、共有サーバーの管理権限は久世にある。文章の更新履歴が上書きされていれば、自分がいつ五原則をまとめたかを証明することは難しかった。


 午後には、久世の聞き取りが別室で行われた。大学は双方の発言が影響しないよう、時間も入口も分けたと説明した。しかし翌朝、学内の複数の教員へ、久世から「指導上の行き違いについて迷惑を掛けている」というメールが送られていた。


 メールの中で澪の名前は出されていなかった。代わりに、「指導者への個人的な執着を研究上の問題へすり替え、施設事故に乗じて注目を集めようとする学生がいる」と書かれていた。受信した教員の一人が、差出人名を伏せて澪へ転送した。


 澪は画面を印刷し、日付を書いた。文章には研究内容への反論も、ノートが消えた経緯への説明もなかった。けれど廊下ですれ違った准教授は、それまでと違って会釈をせず、掲示板の紙を読んでいるふりをした。


 久世から面談を求めるメールが届いたのは、その日の夕方だった。題名は「今後の研究指導について」で、翌日の午後四時に教授室へ来るよう指定されている。同席者については何も書かれていなかった。


 澪は一晩考え、携帯電話の録音機能を使うことにした。久世がノートを持ち出したと認めれば、失われた原本の代わりになる。これまで澪は、図面、写真、時刻、寸法のように、あとから確認できるものだけを証拠として扱ってきたが、その夜は一人の言葉を引き出すことへ考えが傾いた。


 翌日、澪は約束の十分前に教授室へ着いた。携帯電話の録音を開始し、画面を消して、胸元ではなく鞄の外側のポケットへ入れた。机の上には、久世が国際シンポジウムで使用した五原則の冊子と、水を吸って変形したアークのパンフレットが置かれていた。


「座りなさい。今日は感情的にならず、今後について話そう」


 久世はコーヒーメーカーから自分のカップだけに注いだ。澪の前には何も置かず、机の向かいへ腰を下ろした。壁の棚には建築賞の盾が並び、ガラスへ澪の背中が細く映っていた。


「私は、研究室へ戻りたいとお願いしに来たのではありません。失われたノートと、五原則の著作者について確認に来ました」


「大学が調査中の問題について、私から話すことはない」


「先生は、私の机からノートを持ち出しましたか」


「同じ質問を繰り返すのは、研究ではなく執着だよ」


「では、どうして私が発表していない言葉を使えたのですか」


 久世はカップを置き、机の隅にある時計を見た。澪は問いを重ねれば、久世が言葉を滑らせると考えていた。しかし、久世は答える代わりに、研究室の規則を記した紙を一枚取り出した。


「君は、自分だけが特別な発見をしたと思っているようだ。しかし、誰もが使う言葉を五つ並べただけで、所有権を主張することはできない」


「私のノートには、その五つを考えた経緯と、現地での調査記録があります」


「そのノートが存在したという証拠はあるのかね」


「先生が持っています」


「証拠がないから、今ここで私に言わせようとしている。そういうことかな」


 澪の鞄から、ごく短い振動音がした。録音中の携帯電話へ、電池残量を知らせる通知が届いていた。久世は時計から視線を移し、鞄の外側のポケットを見た。


「携帯電話を出しなさい」


「個人の持ち物です」


「この面談を録音しているのか」


 澪はすぐに答えなかった。その沈黙が答えになった。久世は椅子を引き、教授室の扉を開けて、廊下にいた事務補佐員を呼んだ。


「面談は終了します。榊原君が無断で録音を行っていたことを、時刻とともに記録してください」


「私も当事者です。自分が参加する会話を記録しています」


「大学の調査中に、相手を誘導して発言を切り取ろうとした。君がやっているのは、研究倫理の確認ではなく、私個人への攻撃だ」


 久世は初めから、澪が録音する可能性を考えていたのかもしれなかった。ノートについては何一つ具体的に答えず、共有財産だとも、自分が見たとも言わなかった。録音に残ったのは、澪が同じ質問を繰り返す声と、久世がそれを執着と呼ぶ声だけだった。


 教授室を出ると、廊下の突き当たりに段ボール箱が六つ積まれていた。先に返された二箱に加え、研究室の資料棚と保管庫に残っていた澪の調査資料がすべて詰められている。箱の上には、新しいカードキーの登録者一覧が置かれ、澪の名前には赤い線が引かれていた。


「本日、研究室の電子錠を更新した。必要な資料は、そこへまとめてある」


「大学の調査が終わる前に、私の資料へ触れたのですか」


「私物と研究室の所有物を、職員二名の立ち会いで分けた。異議があるなら事務へ申し出なさい」


 久世は教授室の扉を閉めた。電子錠が小さく鳴り、緑色の表示が赤へ変わった。澪は六つの箱を一度に運べず、台車を借りるため一階の事務室へ向かった。


 外へ出たときには、細い雨が降り始めていた。大学構内の台車は門の外へ持ち出せず、澪は箱を二つずつ抱えて、正門前のタクシー乗り場まで三往復した。三度目には箱の底が雨を吸い、中に入っていた紙の端が茶色く透けていた。


 運転手は後部座席と荷物入れへ箱を積み、濡れた澪へ古いタオルを貸してくれた。車内には芳香剤と、運転手が飲んだ缶コーヒーの匂いが残っている。料金表示の数字が上がるたび、澪は鞄の中の財布へ手を当てた。


 六畳の部屋へ戻ると、箱を置く場所がなかった。流し台の前、布団の上、窓際の小さな机まで、すでに研究資料と生活用品で埋まっている。澪は濡れた靴下を脱ぎ、先に布団を畳んで浴室へ立て掛けた。


 箱の底が抜けないよう、一つずつ床へ下ろした。濡れた資料はページを重ねたままにすると貼り付くため、新聞紙を敷き、写真、地図、入場券、現地調査票を一枚ずつ並べた。エアコンの除湿運転を入れると、室外機が古い窓枠を震わせた。


 録音は四十一分残っていた。澪は最初から聞き直したが、久世がノートを盗んだと認める言葉はなかった。むしろ、問いを重ねる自分の声だけが硬くなり、途中からは調査ではなく告発の答えを急いでいるように聞こえた。


 澪は再生を止め、携帯電話を伏せた。建物の欠陥なら、寸法を測り、水の経路をたどり、人の動きを数える。けれど今日は、久世本人から答えを取ろうとし、まだ存在しない一つの言葉へすべてを預けた。


 濡れた資料の間から、小さな紙箱が出てきた。蓋には「海外」とだけ書かれ、輪ゴムは茶色く変色して切れている。中には航空券の半券、地下鉄の切符、博物館の入場券と、十二枚の絵葉書が入っていた。


 最初の一枚は、フランスにある白い集合住宅の写真だった。宛名には日本の自宅住所が書かれ、右上には現地の消印が押されている。裏側には、青いボールペンで短い文章が残っていた。


《屋上庭園は閉鎖。地上階の小さな花壇には住民が水をやっていた。緑は屋上に置けば共有になるのではない。手の届くところになければ、誰の庭にもならない》


 消印の日付は、久世研究室へ入る二年半前だった。澪は新聞紙の上へ絵葉書を置き、次の一枚を手に取った。インドの庁舎を写した葉書には、強い西日を避けるため、職員が窓の内側へ布を吊っていたことが書かれていた。


《水平窓は光を均等に入れる。しかし熱も均等に入る。光だけを設計して、暑さを使う人へ処理させてはいけない》


 三枚目はロンドン、四枚目はロッテルダム、五枚目はチューリッヒから送られていた。どの葉書にも建物を見た日付と、その日に気づいた一文が書かれている。澪は旅先で長い文章を書こうとすると言葉が重なったため、一日に一つだけ観察したことを自分宛てに送っていた。


 六枚目には、古い集合住宅の裏口が写っていた。正面には階段しかないが、住民が後から作った木製の傾斜路が裏口へつながっている。葉書の裏には、「正面を自由にするより、全方向へ責任を持つ」と記されていた。


 九枚目には、可動式の壁を使った小さな住宅が写っていた。夫婦の寝室が、介護の始まりとともに二部屋へ分けられたことが記されている。余白には、「間取りを自由にするのではない。暮らす人が、あとから選び直せるようにする」と書かれていた。


 十二枚目は、東京へ戻る直前にパリの空港から出したものだった。表の写真は有名建築物ではなく、どこにでもある集合住宅の玄関だった。低い庇の下にベンチがあり、買い物袋を持った高齢の女性が腰を下ろしている。


《新しい五原則。地面へ戻れる。緑へ手が届く。暮らしに合わせて変えられる。光だけでなく熱と風を設計する。正面以外にも責任を持つ》


 その下には、小さな字でもう一行書かれていた。


《完成写真ではなく、十年後の裏口から考える》


 澪は十二枚の絵葉書を、消印の日付順に床へ並べた。フランスからインド、ロンドン、ロッテルダム、チューリッヒ、そして再びパリへ、六畳の畳の上に研究の経路ができた。久世が五原則を発表する三年以上前から、言葉は一枚ずつ、日本の自宅へ届いていた。


 消印は澪が自分で書き換えることができない。各国の郵便局を通り、海を越え、当時住んでいた部屋の郵便受けへ入った記録だった。電子データの管理者が誰であっても、十二の国と都市に残された日付までは、久世の研究室で上書きできなかった。


 澪は携帯電話で絵葉書の表裏を一枚ずつ撮影した。次に消印、筆跡、航空券、同じ日に撮った写真を組み合わせ、年代順の一覧を作った。旅費精算書の承認メールと、当時利用した宿泊施設の領収書も添えた。


 夜が明けるころ、床には十二枚の絵葉書を中心に、写真と地図が枝のように広がっていた。窓の結露が一筋落ち、新聞紙の端を濡らした。澪はローズマリーの鉢を窓辺から机へ移し、葉を指で軽くこすった。


 青い香りが、湿った紙と畳の匂いに混じった。録音しようとして失敗した四十一分は、久世の言葉を一つも残さなかった。けれど澪が世界を歩いた三年間は、建物を見た日ごとに、自分の言葉を残していた。


 午前八時、澪は大学の調査委員会へ資料を送った。件名には「新しい五原則の形成過程を示す同時期資料」と記し、十二枚の絵葉書の画像と年代表を添付した。送信後、原本は透明な袋へ一枚ずつ収めた。


 建物は、自分の欠陥を言葉にして訴えることはできない。けれど塞がれた入口、後付けされた手すり、雨水の跡、窓に吊られた布は、使う人が何を直さなければならなかったかを残している。澪が見てきた建物は黙っていたが、何も語っていなかったわけではなかった。


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