第3話 六畳の実験住宅
第3話 六畳の実験住宅
研究室を追い出されてから四日目の朝、澪は六畳の部屋に二つの段ボール箱を積んだまま、求人サイトを開いていた。大学から支給されていた研究補助費は止まり、設計事務所のアルバイトも久世研究室からの紹介だったため、来月以降の予定は白紙になっている。窓際に干した黒いスーツの袖が、隙間風を受けて壁を細くこすっていた。
電気ケトルで湯を沸かし、インスタントのみそ汁へ冷凍しておいた葱を入れたところで、携帯電話が鳴った。相手は、修士課程のころに建築調査で知り合った地域包括支援センターの職員だった。築五十年の団地に住む女性が、自宅で暮らし続けるための改修を相談しているが、複数の業者から予算内では難しいと言われたという。
「使えるのは百二十万円です。榊原さん、設計だけでも見てもらえませんか」
「現場を見なければ何とも言えません。ただ、できない理由を並べる前に、百二十万円で何を守るかは決められます」
澪はみそ汁を飲み切り、段ボール箱から三角スケールと巻き尺を取り出した。大学の名刺は使えないため、白い紙へ自分の名前と連絡先だけを印刷した。肩書のない名刺は、余白ばかりが広く見えた。
依頼人の片桐文枝は七十八歳で、団地の二階に一人で暮らしていた。六畳の和室と四畳半の台所、浴室、便所が短い廊下でつながっている。玄関を開けると、醤油で煮た蕗の匂いと、防虫剤を入れた箪笥の匂いが重なって流れてきた。
文枝は三年前に膝を手術し、室内では四点杖を使っていた。週三日は、電車で四十分の場所に住む娘の理恵が泊まり、入浴や買い物を手伝っている。和室の中央には布団が敷かれ、その周囲を囲むように、背の低いテーブル、薬の袋、洗濯物を入れた籠が並んでいた。
「業者さんはね、床を全部剥がして、台所も取り替えないと駄目だって。そうすると三百万円を超えるそうなの」
文枝は急須を持ち上げようとして、右手を一度膝へ戻した。澪が代わりに湯呑みへ注ぐと、茶の表面に細かい茎が浮いた。茶請けとして出された煎餅は湿気ていたが、文枝は缶の蓋を何度も閉め直した。
「台所は使いにくいですか」
「古いけど、まだ火はつくよ。魚焼きの網も、取り替えたばかりだもの」
「では、台所を新しくすることは、いったん忘れましょう」
澪は巻き尺を伸ばし、玄関から和室まで歩いた。上がり框は十八センチ、廊下と和室の間には三センチ、台所との境には二センチの段差がある。どれも図面では小さな数字だが、文枝は段差の前で杖を置き直し、左足を上げてから右足を引き寄せていた。
和室の押し入れには、亡くなった夫の布団と座布団、古い扇風機が詰め込まれていた。天袋には贈答品の箱が並び、襖の前には衣装ケースが二段積まれている。文枝は、捨てるものは自分で決めたいと言い、澪は押し入れの中を勝手に開けなかった。
「一番困っているのは、どんなときですか」
「理恵が泊まる夜だね。私の布団を敷くと、あの子は台所に寝るしかないの。夜中に私が便所へ行けば、あの子をまたいで通ることになる」
「私が抱き起こして、布団から廊下まで連れていくんです」
理恵は、母親の背中へ腕を回す動作をしてみせた。洗面所で手を洗ったあと、腰へ湿布を貼るのが泊まりの日の習慣になっているという。テーブルの脚には、理恵がぶつけた痕が白く残っていた。
澪は和室の中央へ座り、目の高さを文枝に合わせた。窓は南向きだが、夏の午後には庇を越えて日が入り、畳が熱を持つ。窓を開けても、台所と廊下の扉を閉めれば風は止まり、開ければ玄関から室内が見通せてしまう。
「きれいな部屋を作ることと、暮らせる部屋を作ることは、同じではありません。最初に守るのは、片桐さんが自分で玄関まで行けることです」
澪は鞄から方眼紙を取り出した。押し入れの中板を外し、奥行きを利用して介護用ベッドの頭側を収めれば、和室の中央を空けられる。敷居は撤去せず、両側に緩い傾斜の部材を付ければ工事費を抑えられ、古い木枠も残せる。
和室と台所を仕切る襖は、上部へ光と風を通す欄間を付けた軽い可動壁へ替える。理恵が泊まる夜には閉め、一人の昼間は開けておけば、玄関側の小窓から南の窓まで風が抜ける。窓の外には簾を取り付け、室内側には植木鉢を置ける低い棚を兼ねた手すりを設ける。
「棚なら、ローズマリーを置きたいね。昔は庭に植えていたんだよ」
「植木鉢を持ち上げなくても水をやれる高さにしましょう。余った水が床へ落ちない受け皿も付けます」
「そんなものまで、建築なの」
「毎朝使うなら、建築です」
工事費の見積もりは百十七万八千円になった。押し入れの改修、床の段差調整、可動壁、手すり、簾の金具、照明の移設までを含み、介護ベッドは福祉用具のレンタル制度を利用する。台所の扉と流し台は交換せず、文枝が長年使ってきた食器棚もそのまま残した。
着工前、澪は文枝に普段どおり布団から起きてもらい、玄関の外へ出るまでの時間を計った。文枝は布団の端へ両手をつき、膝を立てるまでに二分近くかかった。四点杖を探し、衣装ケースを避け、三か所の段差で足を止め、玄関の靴を履き終えたとき、ストップウォッチは十二分四秒を示していた。
「火事なら、間に合わないねえ」
文枝は玄関の外に置かれた丸椅子へ腰を下ろした。団地の階段から、昼食を作る油の匂いが上がってくる。下の階では子供が縄跳びをしており、縄がコンクリートを打つ音が規則正しく続いていた。
「建物で一番先に守るものは、人の生命です。その次に、その人が積み重ねてきた暮らしと財産です」
「三百万円の台所より、逃げられる三センチ、ということ?」
「はい。その三センチを先に直します」
工事は六日間で終わった。初日に押し入れから出した布団を文枝が一枚ずつ確認し、使わないものは近所の古布回収へ出した。夫が生前使っていた薄い座布団だけは残し、介護ベッドの下へ収まる箱へ入れた。
大工は押し入れの中板を外し、柱を残したまま内部を補強した。介護ベッドの頭側が収まると、和室の中央に畳二枚分の空間ができた。理恵は何度も部屋を歩き、母親を抱えずにベッドの左右へ回れることを確かめた。
窓辺の棚は、文枝が立ったまま手を伸ばせる七十五センチの高さにした。棚の端は手すりとして握れるよう丸く削られ、鉢の受け皿は引き出して洗える。外に取り付けた簾を下ろすと、午後の日差しは畳の手前で止まり、細い縞模様だけが室内へ落ちた。
完成した翌朝、文枝は新しいベッドの端へ腰掛けた。足元にはいつもの四点杖が、壁の金具へ倒れないよう固定されている。澪がストップウォッチを押すと、文枝は手すりを握って立ち上がった。
可動壁は開かれ、玄関までの通路には衣装ケースもテーブルもなかった。文枝は段差の前で杖を持ち上げず、そのまま緩い傾斜を越えた。玄関には腰掛けと縦手すりがあり、座ったまま靴を履くことができた。
「三分二十秒です」
澪が告げると、理恵は玄関の柱へ片手をついた。もう片方の手には、母親の背中へ回すために用意していたタオルが握られている。文枝は廊下へ出たあと、自分で扉を閉め、鍵まで掛けてみせた。
「私、何もしなかった」
理恵は手の中のタオルを見た。これまでは母親を抱き上げ、杖を運び、靴を履かせ、荷物を持ってから最後に自分が外へ出ていた。今日は文枝の後ろを歩いただけだった。
「何もしなくてよい時間を作るのも、改修の役目です」
文枝は室内へ戻り、窓辺にローズマリーの鉢を置いた。指で葉を二枚こすると、乾いた畳の匂いの中へ、青く鋭い香りが広がった。低い棚にはまだ鉢一つしかなく、残りの場所には朝刊と老眼鏡が並べられた。
澪は改修前後の平面図、室温の変化、避難時間、介助動作の回数を報告書にまとめた。研究室の共有サーバーは使えないため、自分の古いノートパソコンで表を作り、大学の研究業績審査へ提出した。提出から三日後、久世から短いメールが届いた。
件名は「研究実績の取り扱いについて」だった。本文には、設計上の新規性がなく、家具配置と内装変更の範囲であるため、建築研究の実績とは認められないと書かれている。末尾には、「ただの模様替えを研究と呼べば、専攻全体の水準が疑われる」と付け加えられていた。
澪はメールを印刷し、片桐家の改修報告書と一緒にファイルへ綴じた。翌週の学内報告会には、研究室の在籍者としてではなく、地域包括支援センターの協力者として参加を申し込んだ。発表用の画面には、完成した部屋の写真より先に、「十二分四秒」と「三分二十秒」の数字を大きく置いた。
報告会当日、久世は最前列の端に座っていた。澪が百二十万円の改修内容を説明すると、久世は質疑応答で手を挙げた。机の上には、国際シンポジウムで配られた五原則の冊子が置かれている。
「安全性を語っているが、段差を調整し、家具を動かしたにすぎない。建築と呼ぶには、あまりに規模が小さいのではないかね」
澪は、最後の写真を画面へ映した。窓辺の低い棚にローズマリーが置かれ、文枝の杖はベッドの脇へ固定されている。写真の隅には、泊まりに来た理恵の布団を敷ける空間が残っていた。
「改修前、片桐さんが自力で玄関へ出るまで十二分四秒かかりました。改修後は三分二十秒です。介助していた娘さんの腰への負担もなくなりました」
「それは生活上の改善だ。建築的価値とは別の話だよ」
「建築が生活と別なら、誰のために建てるのですか」
会場の後方で、地域包括支援センターの職員が資料をめくった。工事を担当した大工は作業着のまま壁際に立ち、帽子を両手で持っている。澪は久世ではなく、改修前後の二枚の平面図へ体を向けた。
「美しい建物が、人を守るとは限りません。でも、人を守れない建物を、私は美しいとは呼びません」
久世は冊子を閉じた。表紙に印刷されたアークの屋上庭園が、折れた紙の中央で歪んだ。澪は次の発表者へ席を譲る前に、窓辺のローズマリーを指した。
「小さい建築などありません。そこで暮らす人の一日は、一日分あります」
報告会を終えて片桐家へ寄ると、文枝はローズマリーへ水をやっていた。水差しは以前使っていた大きなものではなく、理恵が百円ショップで買ってきた小さな白い容器だった。受け皿へ落ちた水を布で拭き、文枝は夕飯に使う二枚の葉を鋏で切った。
窓の外では、団地の棟と棟の間へ西日が差していた。簾を下ろした部屋には熱が入りにくく、台所の小窓から通り抜けた風が、可動壁の上を抜けて玄関へ流れている。澪の黒いノートは戻らなかったが、そこに書いた最初の原則は、六畳の部屋で毎日使われ始めていた。




