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第2話 教授の「新しい五原則」

第2話 教授の「新しい五原則」


 国際建築シンポジウムの開催を知らせるメールが届いたのは、黒いノートが消えてから十二日後だった。午前五時十三分、澪は六畳の部屋で湯を沸かし、昨日の残りのご飯へ鰹節と醤油を混ぜていた。流し台の上に置いたノートパソコンが短く鳴り、画面には《人と自然を結び直す都市建築――久世征一郎、新たな五原則を世界へ》という件名が表示された。


 添付された案内状には、緑に覆われた《空中庭園都市アーク》の完成予想図が使われていた。会場は都内の国際会議場で、国内外の建築家、研究者、開発事業者が招かれている。基調講演の題名は「二十一世紀の建築に必要な五つの責任」だった。


 澪は火を止め、湯気の上がる鍋をコンロから下ろした。久世がこれまで好んで使ってきたのは、「自由」「革新」「象徴」「造形」「未来」という言葉である。「責任」という言葉を、学生の発表に対してさえ使ったことはなかった。


 メールの末尾には、研究室の学生は受付補助として参加するよう記されていた。交通費の支給はなく、集合は午前七時、服装は黒か紺のスーツと指定されている。澪は冷めかけたご飯をラップで包み、鞄の底へ入れた。


 会場のロビーには、アークの巨大な模型が置かれていた。階段状に重なる屋上庭園には指の先ほどの桜が並び、透明な外壁の内側には、白い椅子に腰掛ける人形が配置されている。模型の周囲には細いロープが張られ、来場者は銀色のプレートに刻まれた久世の名前を撮影していた。


 澪は受付で名札を受け取った。所属欄には「東京大学大学院 久世研究室」とだけあり、学生の氏名は小さな活字で印刷されている。研究室の同僚は資料の袋詰めに追われ、誰も黒いノートについて口にしなかった。


 午前十時、会場の照明が落ちた。久世は濃紺のスーツに銀色のネクタイを合わせ、拍手の中を壇上へ進んだ。背後の大画面には、青空から見下ろしたアークの映像が広がった。


「二十世紀の建築は、壁と柱を自由にしました。二十一世紀の私たちは、人の暮らしそのものを自由にしなければなりません」


 澪は会場後方の壁際で、配付資料を開いた。最初のページには、久世の顔写真と略歴が載っている。ページをめくると、五つの短い文章が、金色の数字とともに並んでいた。


 一つ目は「建築は、すべての人を大地と空へ導く責任を持つ」。二つ目は「緑を鑑賞物から生活の一部へ戻す」。三つ目は「家族と働き方の変化を受け入れる自由な空間を作る」。四つ目は「光、風、熱を建物全体で分かち合う」。五つ目は「正面と裏面の区別をなくし、都市の全方向へ開く」だった。


 澪は鞄から黒いボールペンを出し、資料の余白へ、失われたノートに書いた文章を思い出せる限り記した。一つ目は「災害時に、誰もが自分の力で地面へ戻れること」。二つ目は「屋上だけでなく、子供の手が届く高さに緑があること」。三つ目は「病気、老い、別居、介護による暮らしの変化を、解体せずに受け入れられること」と書いていた。


 久世の言葉は、よく磨かれていた。避難は「空へ導く」に、手の届く緑は「生活の一部」に、介護や病気は「家族と働き方の変化」に置き換えられている。そこには階段を上れない脚も、夏の窓辺で働く人の汗も、家族が介護ベッドを置くために捨てる箪笥もなかった。


「建築は、もはや単なる器ではありません。空と大地、人と自然、そして都市の未来を結ぶ使命を持っています」


 壇上の久世が片手を上げると、完成予想映像の中で屋上庭園の桜が一斉に咲いた。緩やかなスロープを、ベビーカーを押した夫婦と、白い杖を持つ老人が並んで上っている。来場者の何人かがスマートフォンを持ち上げ、画面を撮影した。


 澪は映像の右下を見た。小さな文字で「映像は計画段階のイメージです」と表示され、三秒後には桜の花びらに隠れた。老人が歩いているスロープは、実施設計図では存在しない位置に描かれていた。


 講演終了後、久世の周囲には記者と建築関係者の輪ができた。澪は配付資料を持ったまま、ロビーの模型へ向かった。映像で使われたスロープが模型にも追加され、八階の商業フロアから屋上庭園まで、植栽の間を縫うように続いている。


 模型の脇には、研究成果の説明パネルが立てられていた。共同研究者として三人の准教授、開発会社、海外の設計協力者の名前が並んでいる。澪の名前はどこにもなかった。


「榊原さん、受付を離れないでもらえるかな」


 背後から久世の声がした。記者への応対を終えたらしく、胸元には講演者用の金色のリボンが付いている。澪は配付資料の五つの文章へ指を置いた。


「この原則は、私の研究ノートに書いていたものです。十二日前、そのノートが研究室からなくなりました」


「研究室で行われた研究は、研究室の共有財産だ。指導の過程で生まれた考えを、学生個人の所有物だと主張されては困る」


「私は久世研究室へ入る前から調査を始めています。写真、渡航記録、発表原稿も残っています」


「それを研究として整理したのは、私の指導を受けてからだろう」


 久世は声を低くしたまま、通り過ぎる来場者へ軽く頭を下げた。足元の絨毯には、立食会場から落ちたパセリが一片踏まれている。会場係が小型の掃除機を持ってきたが、久世は話の邪魔になるというように手で追い払った。


「ノートを返してください。それから、このパネルに私の名前を入れてください」


「紛失物の所在を私に尋ねられても分からない。それに、この提言はアークの設計思想として私がまとめたものだ。君の名前を入れる理由はないよ」


 久世は胸ポケットから細長い紙を取り出した。澪が海外調査へ行った際の旅費精算書の写しで、二年前の日付が付いている。フランスからインドへ移動した区間の宿泊費一泊分に、赤い丸が付けられていた。


「そういえば、事務から確認を求められている。申請した宿泊地と、君の写真に記録された位置情報が一致しないそうだ」


 澪は書類を受け取った。鉄道が運休したため、予約していた宿へ着けず、隣の都市で一泊した日のものだった。帰国後に事情書と領収書を提出し、事務職員から承認済みの連絡も受けている。


「その件は精算時に報告しました。承認メールも保存しています」


「事務処理上の承認と、研究倫理上の問題は別だ。調査目的外の滞在と判断されれば、返還だけでは済まない可能性もある」


「研究倫理委員会へ、当時の書類をすべて提出します」


「大ごとにする必要はない。君が今後も大学で研究を続けたいのならね」


 ロビーのスピーカーから、立食会の開始を知らせる音楽が流れた。久世はネクタイの結び目を直し、澪の手から旅費精算書を抜き取った。紙の角が爪に当たり、澪の人差し指に白い線が残った。


「若い研究者は、自分の考えだけで研究が成立していると思いがちだ。場所、資金、人脈、発表の機会を誰が与えたのか、少し考えたほうがいい」


 久世は来賓に呼ばれ、立食会場へ向かった。澪はロビーに残り、模型の中を歩く白い人形を見た。スロープの途中には手すりも踊り場もなく、屋上へ近づくにつれて幅が狭くなっている。


 鞄の中には、普段図面の縮尺を確認するための三角スケールが入っていた。澪は会場係へ模型を確認したいと告げ、設計スタッフ用の入口からロープの内側へ入った。模型の縮尺は百五十分の一で、スロープの最も狭い部分へ定規を当てると、実寸で九十センチに満たなかった。


 車椅子一台は通れても、人とすれ違うことはできない。傾斜は途中から十二分の一を超え、長さに対して必要な踊り場も設けられていなかった。さらに上部の終点は、実施設計では消防用の連結送水管と排煙設備が置かれる区画へ接続している。


 澪はタブレットで実施設計図を開き、模型と交互に確認した。完成予想映像では植栽の陰に隠れていた部分に、消防設備の扉がある。扉を規定どおり開けばスロープを完全に塞ぎ、閉じたままでも、前に必要な操作空間を確保できない。


 立食会場から久世が戻ってきた。海外の建築家二人と記者を連れ、模型を使って五原則を説明するためだった。澪はロープの内側で立ち上がり、三角スケールを模型に当てたまま彼らを迎えた。


「榊原君、何をしている」


「寸法を確認しています」


「許可なく模型に触らないでくれ。これは展示物だ」


「実施設計ではないのですか」


 記者が手帳を開いた。久世は英語で、学生が細部を確認しているだけだと説明し、屋上庭園を指し示した。澪は模型の脇に置かれていた説明用の黄色い付箋を一枚取り、スロープの終点へ貼った。


「このスロープは有効幅が足りません。必要な踊り場もなく、終点は消防設備の操作空間と重なっています」


「模型上の簡略表現だ。実際の施工段階で調整する」


「実施設計図には、スロープそのものがありません」


 記者のペンが動いた。開発会社の社員が模型へ近づき、澪のタブレットに表示された図面をのぞき込んだ。久世は片手を上げ、学生の研究上の検討事項にすぎないと繰り返した。


「映像では、このスロープを車椅子の人とベビーカーが利用しています。けれど実際の建物では、ここに消防設備が設置されます。人を通せば設備が使えず、設備を守れば人が通れません」


「榊原君。今はその話をする場ではない」


「先生が、すべての人を大地と空へ導くと発表された場です」


 ロビーに、食器を片づける音が届いた。白いクロスを掛けたテーブルでは、残ったサンドイッチが銀色の盆へ集められている。久世の隣にいた海外の建築家は通訳へ何かを尋ね、通訳は消防設備とスロープが重なっていると説明した。


 澪は模型から三角スケールを離した。黄色い付箋だけが、緑色の屋上庭園から垂れ下がっている。そこには黒いペンで、「通行不能」と書いた。


「先生の五原則は、一つ目から人が通れません」


 久世は返事をしなかった。代わりに模型へ手を伸ばし、黄色い付箋を剥がそうとした。開発会社の西脇が、その手を止めるように実施設計図を久世の前へ差し出した。


「先生、この部分は今日中に確認させてください。広告映像は、すでに販売説明会でも使用されています」


「模型と映像は、思想を分かりやすく伝えるための表現だ」


「購入予定者は、屋上まで段差なく行けると理解しています。表現では済みません」


 西脇は付箋を剥がさず、スマートフォンで模型と実施設計図を続けて撮影した。記者も同じ位置から写真を撮り、久世へ、五原則の共同研究者について質問した。久世は午後の予定があると言い、模型を残して控室へ戻った。


 澪が研究室へ帰ったのは午後七時を過ぎてからだった。自分の机には、段ボール箱が二つ置かれていた。中には専門書、筆記用具、マグカップ、外国で集めた入場券がまとめて入れられ、机の名札は外されている。


 壁の座席表を見ると、澪の名前があった場所には「共同利用席」と印刷した紙が貼られていた。学生用の共有サーバーへ接続すると、研究資料のフォルダにはアクセス権限がないという表示が出た。久世から届いたメールには、研究方針の再検討が済むまで、自宅で待機するよう書かれている。


 澪は段ボール箱の底から、朝入れたままのご飯を取り出した。ラップの内側には水滴が付き、醤油を混ぜた米は固くなっている。窓辺に立って半分まで食べたところで、ノートパソコンへ西脇からメールが届いた。


 添付されていたのは、模型のスロープと黄色い付箋を一緒に撮った写真だった。本文には、実施設計と広告映像の相違について社内調査を始めたこと、澪が提供した日射と避難動線の資料を作成者名付きで保全したことが記されている。最後の一行には、「本日のご指摘も議事記録へ残しました」とあった。


 澪は残ったご飯を口へ入れ、空になったラップを畳んだ。机は失ったが、久世が消し忘れたものが一つできた。緑色の模型に貼られた黄色い付箋は、教授が発表した五原則より先に、記録として社外へ出ていた。


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