第1話 写真に写らない入口
第1話 写真に写らない入口
午前六時四十分、工学部一号館の研究室には、空調の低い唸りと、榊原澪が海苔を噛み切る音しかなかった。机の端にはコンビニで買った鮭のおにぎりと紙パックのほうじ茶が置かれ、その横でノートパソコンが百八十六枚の写真を順番に映している。窓の外では、銀杏の枝に残った昨夜の雨粒が、通学してくる学生の傘へ時折まとまって落ちていた。
最初の写真は、パリ郊外にある集合住宅の屋上だった。建築史の教科書には、空と緑を住民へ返した革新的な屋上庭園として紹介されているが、澪が撮った鉄扉には錆びた南京錠が掛かり、脇には「立入禁止」の紙が三枚重ねて貼られていた。次の写真にはインドの庁舎の壁を伝う黒い雨水の筋、その次には白い外壁へ後付けされた日よけと、紐で固定された古い竹箒が写っている。
澪は写真の題名を「閉鎖された屋上」「排水不良」「管理用品」とは付けなかった。南京錠の写真には「庭へ行けなくなった日」、黒い筋には「雨が建物を覚えている場所」、竹箒には「図面に描かれなかった一本」と入力している。建物を見学するたび、正面玄関でカメラを構える観光客の列から外れ、搬入口やごみ置き場、警備員の詰め所へ回るのが澪の癖だった。
足元の鞄には、角の潰れた黒いノートが五冊入っていた。表紙には国名も建物名も書かず、一冊目から順に白い丸印を増やしてある。文字を長く追うと行が重なって見える澪にとって、色分けした平面図と、歩いた順に引いた矢印のほうが、整った文章より正確な記録になった。
午前七時を過ぎると、廊下で自動販売機へ缶を補充する音が始まった。澪はおにぎりの包みを四角く畳み、発表資料の最後に一枚だけ文章のページを加えた。白い画面の中央には、三日前から書いては消していた一文が残っている。
「建築の価値は、完成した日の写真ではなく、十年後の裏口に現れる」
声に出すと、少し長かった。けれど削る言葉は見つからず、澪はそのまま保存した。ほうじ茶のストローを抜き、空になった紙パックを平らに潰したところで、研究室の照明が一斉についた。
「榊原さん、また泊まったの」
入ってきた修士一年の学生が、濡れた折り畳み傘を新聞紙の上に広げた。澪は首を横に振り、始発で来たと答えたが、机の下には昨日から履いているスニーカーが置かれている。学生はそれ以上尋ねず、土産でもらったという小袋のクッキーを一つ、澪のほうへ滑らせた。
午前九時、久世研究室の定例発表が始まった。正面の長机には、指導教授の久世征一郎と准教授二人、その横には《空中庭園都市アーク》の事業を担当する開発会社の社員三人が並んでいる。久世の背後には、階段状の屋上へ樹木が連なる巨大複合施設の完成予想図が掲げられ、青空の下を白い服の家族が歩いていた。
澪は世界各地で撮った建築物の正面写真を、最初に五枚だけ見せた。白い箱、水平に伸びる窓、地面から建物を浮かせる細い柱、青空へ続く屋上庭園。久世は銀色の眼鏡を押し上げ、開発会社の社員へ「彼女はずいぶん現地を歩いていますから」と説明した。
六枚目で、澪は同じ建物の裏側を映した。白かったはずの壁は排気口の周囲だけ灰色になり、水平窓の下には室外機が並び、ピロティの一角は金網で囲われて自転車置き場になっている。席の後方から椅子を引く音がしたが、澪は画面を切り替えなかった。
「建築家が設計したのは完成した日までです。けれど利用者は、その翌日から建物を直しながら使います」
澪は、後付けされた手すりの写真を示した。高さは床から七十八センチで、壁には一度取り付けに失敗した穴が二つ残っている。手すりの下には、買い物用のカートを押したまま休めるよう、住民が持ち込んだ小さな木製椅子が置かれていた。
「この椅子は、設計図にはありません。でも、この建物で最もよく使われている設備の一つです」
久世が指先で二度、机を叩いた。次のスライドへ進めという合図を、研究室の学生なら全員知っている。澪がリモコンを押す前に、久世は開発会社の社員たちへ向けて口元を緩めた。
「榊原君は建築を見ず、汚れと不満ばかり拾う癖がありましてね。研究者には、利用者の愚痴を集めるだけでなく、空間を構想する力も必要です」
室内の空調は二十三度に設定されていたが、澪の右手には薄く汗が浮いていた。リモコンの継ぎ目へ親指の爪を当てると、プラスチックの細い溝が皮膚へ食い込んだ。澪は用意していた次の写真を飛ばし、アークの南西側立面図を画面へ出した。
「では、構想中の空間について申し上げます。この西側のガラス面は、七月の午後三時に床から一・二メートルの高さまで直射日光が入ります」
久世の指が止まった。澪は平面図へ切り替え、保育施設と飲食店の客席を赤線で囲んだ。ガラス面の内側には吹き抜けがあり、日射を遮る庇も外付けルーバーも計画されていない。
「空調で処理する予定だ。最新の高効率設備を導入する」
「通常電力が供給されている間は処理できます。停電時には、この保育室が建物の中で最も早く温度上昇します。非常用電源は避難用エレベーター一基と防災設備に使用され、空調までは維持できません」
澪は屋上庭園へ続く動線を青い線でなぞった。庭園へ直通する来館者用エレベーターはなく、八階で降りたあと、幅一・二メートルの階段を二十四段上る設計になっている。別経路には管理用エレベーターがあるが、植栽への給水配管と機械室に挟まれ、車椅子が方向転換する空間は取られていなかった。
「屋上庭園を誰にでも開くのであれば、車椅子、ベビーカー、杖を使う人が同じ入口から行ける必要があります。現在の図面では、庭園へ到達できる人を階段が選びます」
「建築には高低差が必要だよ。すべてを平らにすれば、空間は退屈になる」
「高低差と、到達できないことは別です」
窓の外を大型トラックが通り、古い窓ガラスが短く震えた。久世は背もたれへ体を預け、シャープペンシルを指の間で一回転させた。銀色の軸が蛍光灯を反射し、開発会社の社員三人はそろって配付資料へ目を落とした。
澪は最後に避難計画図を出した。施設全体の収容人数に対し、避難用エレベーターは一基しかなく、階段を使えない人が一時待機する区画も二か所に偏っている。火災の発生位置によっては、屋上庭園から戻ってきた利用者と、商業階から下りる人の流れが一つの廊下でぶつかる設計だった。
「この交差部は、煙を避けて移動する人と、上階から下りる人が正面衝突します。庭園の植栽を一列減らして待機区画を広げれば、二方向の避難経路を確保できます」
「樹木を減らせば、外観の連続性が崩れる」
「火災のとき、人は外から建物を見ません」
長机の端で、開発会社の若い男性が顔を上げた。名札には「都市開発部 西脇」とあり、彼の資料には青い付箋が何枚も貼られている。久世は時計へ目をやり、予定時間を過ぎていると告げて発表を終わらせた。
学生たちは椅子を戻し、昼の授業へ向かうため研究室を出ていった。久世は開発会社の社員を別室へ案内しながら、澪には次回までに「建築の美的価値を扱う研究へ修正するように」と言い置いた。完成予想図の屋上では、同じ姿勢の家族が、誰もいない青空の下を歩き続けていた。
澪がケーブルを片づけていると、西脇が戻ってきた。彼は長机に置き忘れたペンを拾い、それから声を落として配付資料の追加分が欲しいと言った。特に日射の計算と避難動線について、社内の設備担当者へ確認させたいという。
「教授を通してくださいと言われるでしょうけれど、計算したのは私です。出典を残すことを条件に、データをお渡しします」
「分かりました。榊原さんのお名前と作成日を入れます」
澪は自分のノートパソコンから資料を印刷し、全ページの右下に氏名と日付を書き込んだ。西脇はその場で枚数を確認し、透明なファイルへ収めた。久世が別室から戻る足音が聞こえると、彼は短く頭を下げて廊下へ出ていった。
その日の午後、澪は図書館で古い建築雑誌を調べた。夕方には学食で三百八十円のかけ蕎麦を食べ、刻み葱を一片残したまま、閉館時刻まで資料を写した。研究室へ戻ったのは午後九時二十分で、廊下の照明は人感センサーが反応するたび、澪の前だけ一本ずつ点灯した。
扉の鍵は掛かっていなかった。中には誰もおらず、机の上に朝のクッキーがそのまま残っている。澪は電気ケトルに水を入れ、黒いノートを鞄へ戻そうとして、机の右端に重ねた冊数を数えた。
白い丸が一つ、二つ、三つ、四つ。五つ目がなかった。世界各地の建物の傷を記録した四冊は揃っているのに、表紙の中央へ白いペンで「現代の五原則」と書いた一冊だけが消えていた。
澪は引き出しをすべて開け、書類の間と本棚の下を調べた。ごみ箱の中には昼に誰かが捨てたコーヒーカップと、シュレッダーにかけられた模型材料の袋しかない。机の下へ膝をついたとき、床に小さな土の塊が落ちているのを見つけた。
研究室の学生は、雨の日には入口で靴底を拭く。けれどその赤茶色の土は、朝から澪の机の脇に置かれていたアークの植栽模型と同じ色をしていた。模型を見ると、屋上庭園の端に立っていた樹木が一本折れ、土台には親指で押したようなくぼみが残っている。
澪は立ち上がり、誰もいない教授席を見た。久世の机の上には、午前中にはなかった黒い革の書類鞄が置かれている。その口は固く閉じられ、持ち手には、植栽模型の赤茶色の土が薄く付着していた。




