第33話 新世界の夜明け
戦場を覆っていた血の色の空が、ゆっくりと白み始めていた。
天空を蹂躙していた【堕落聖女】の髑髏は
セシリアの放った光の奔流によって数千万の花弁へと解け
大地には命を慈しむような温かな雨が降り注いでいる。
「……嘘だろ。教会の『神罰』が、こんな……ただの花に……」
武器を落とし、泥の中に膝をついた王国兵が
空を見上げて呆然と呟いた。
彼らの心に深く刻まれていた狂信という名の呪縛は
降り注ぐ黄金の雨に洗われ、急速に霧散していく。
戦意を喪失した兵士たちの間に広がったのは
恐怖ではなく、魂の奥底から込み上げる安堵だった。
だが、その静寂を、傲岸不遜な『覇者』の足音が踏みにじる。
「ククッ……。終わってみれば、実にあっけないものだな。神の奇跡とやらを期待していたが、蓋を開ければ泥臭い人間の怨念。それを肥料に変えてしまうとは。クロード、お前という男はどこまで合理的なのだ」
ガウロスの装甲板を蹴り、地上へと降り立ったのはアナスタシアだ。
彼女の纏う空気は、農場の一員としての仮面を脱ぎ捨て
一国を支配する「帝国皇女」としての威厳をむき出しにしていた。
彼女は生贄となり、かろうじて意識を保っている
枢機卿ベルナルドを見下ろし、不敵に鼻で笑った。
「私の前に跪け、王国の残滓ども。ここからは、敗者による祈りの時間ではない。勝者による『宣告』の時間だ」
アナスタシアの声は
魔導拡声器を介さずとも戦場全体に響き渡った。
その圧倒的な『格』の差に
王国騎士団の生き残りたちが一斉に戦慄する。
「王国の将兵よ、よく聞くがいい。私の名はアナスタシア・フォン・ゼーノス。帝国の第一皇位継承権を持つ、正統なる皇女である!」
その宣言に、リリアーナが息を呑んだ。
正体を知っていたとはいえ、これほど堂々と名乗れば
帝国との外交問題にすら発展しかねない。
だが、リリアーナはすぐに前へ踏み出し
アナスタシアの背後に控えて剣を掲げた。
「皇女殿下の御前である! 武器を捨て、その頭を垂れなさい!」
リリアーナの凛とした声が
混乱する兵士たちに「新たな秩序」を突きつける。
王国騎士としての誇りと、ヴェルデの民を守る義務。
その二つを背負う彼女の姿は
迷える敗残兵たちにとって唯一の指針となった。
「ククッ、良い面構えだ、リリアーナ。……さて、王国と教会よ。お前たちはこの『聖域』に手を出し、帝国の皇女を害そうとした。これは明白な宣戦布告と受け取って構わんのだな? お前たちの王に、帝国軍の鉄騎兵を迎え撃つ覚悟があるのならば、今この場で首を跳ねてやってもよいぞ」
アナスタシアの冷徹な言葉は、実質的な独立宣言であった。
王国でも帝国でもなく『アナスタシア』という個人の覇道が
このヴェルデという地に根を下ろした瞬間だった。
その時、天空からゆっくりと一筋の光が降りてきた。
覚醒を終えたセシリアだ。
彼女の身体を包んでいた神々しい光は収まっていたが
その瞳には黄金の輝きが残り、纏う魔力は以前よりも深く
清涼なものへと変化していた。
「クロードさん……私、帰ってきました」
着地と同時に崩れ落ちそうになったセシリアを
俺は慌てて抱き止めた。
その身体は驚くほど軽く、そして信じられないほどの熱を帯びている。
「セシリア! 無理をするな、君は十分に……」
「いいえ、見てください……。大地が、喜んでいます」
セシリアが力なく指差した地面。
そこは先ほどまで呪いで枯れ果て
ガウロスの履帯で踏みにじられていた泥濘だった。
しかし、彼女の足元から
爆発的な勢いで芽吹いたのはトマトでもジャガイモでもなかった。
それは、七色に輝く花をつけた見たこともない薬草や
魔力を帯びた巨大な樹木。
「バカな……。水耕栽培の回路を介さず、ただセシリアが触れただけでこれほどの成長だと? しかも、既存の生態系にない品種だ……」
俺の科学的知識が、目の前の光景を否定しようとする。
だが、リリアーナが驚愕の声を上げた。
「クロード、これを見て! 負傷した兵士たちの傷が、植物から放たれる香りを吸い込むだけで塞がっていくわ。……これはもう農業じゃないわ。世界そのものを再構成しているんだわ!」
セシリアの覚醒は、ただの魔力増幅ではなかった。
彼女自身が『生命の源』となり
周囲の環境を強制的に『楽園』へと作り変える特異点へと進化したのだ。
夜が明け、ヴェルデ農園を黄金の朝日が照らし出す。
目の前には、かつて「堕落聖女」だった巨大な花の樹がそびえ立ち
その周囲には奇跡のような緑の海が広がっている。
王国軍は武装を解除し
リリアーナの指示のもとで負傷者の救護に当たっていた。
もはや彼らの中に、ヴェルデを攻撃しようとする者は一人もいない。
「ククッ……。世界を書き換える農園、か。これこそが、私が求めていた理想の国家の形なのか」
アナスタシアは、朝日を背に受けて不敵に微笑んだ。
彼女の視線はすでに、目の前の王国軍ではなく、地平線の向こう側――
自分を追放した帝国
そしてこの力を欲するであろう世界全体に向けられている。
「クロード。お前の『科学』とセシリアの『神性』、そして私の『権威』だ。この三つが揃った今、もはやこの世界の理など、我らの前では紙屑も同然だ」
俺は腕の中で眠りについたセシリアを見つめ、静かに頷いた。
「アナスタシア、まずは朝食にしないか? みんな、腹が減ってるみたいだぞ? この新しい世界の、最初の収穫物を味わないか?」
たかが農夫が始めた水耕栽培は
いつの間にか世界の命運を握る巨大な渦へと成長してしまった。
だが、どんなに世界が変わろうとも、俺のやるべきことは変わらない。
「まずは……この戦場を片付けて、最高のスープを作るところから始めよう。それがこの農園の流儀だからな」
戦いは終わった。
しかし、ヴェルデ農園が世界の中心となる
真の『激動の季節』が今、幕を開けたのだ。




